photo by iStock

「批評」の終幕と「小説」の到来ー文芸批評家・佐々木敦の軌跡

「小説」はとつぜんやってくる
小説という問題への探求、その思考の足跡をすべて刻んだ文芸批評家としての最後の主著『それを小説と呼ぶ』を上梓した佐々木敦氏による、特別エッセイをお届けします。
佐々木氏が、この本を批評家としての「最後の主著」と言う理由とは? 文芸批評の先に現れたものとは、いったい何だったのでしょうか?
 

最後の文芸批評

『それを小説と呼ぶ』は、文芸批評家としての私の、第三の、そしておそらくは最後の「主著」になるだろう

第三の、と言うからには第一、第二について述べておくべきだろう。

「第一」は2017年10月に講談社から刊行された『新しい小説のために』であり、「第二」は本年(2020年)6月に新潮社から刊行された『これは小説ではない』である。

「第一」では前半で「小説」の「描写」と「叙述」を幾つかの要点に即して検討し、後半では「私小説」の歴史的/原理的な問題を扱った。

「第二」では題名の通り「小説ではない」映画や写真や録音や演劇といった表現領域の先端的な試みを分析し、それらを「小説」に送り返す、ということを行なった。

そして「第三」となる『それを小説と呼ぶ』においては、「世界」や「神」や「無限」などといった、きわめてマクロなテーマを取り上げつつ、それらを思考することが、いつのまにか「小説」の到来を呼び込むことになる、という目論み、というか期待(?)に沿って論述を行なった。どうも自分でもうまく説明出来ないが、おおむねそういうつもりで私はこの本を書いた。

私たちは日常会話において「世界」というワードをごく普通に口にしているが、それがほんとうは何のことであるのか、何を指しているのか、何を表わしているのかは、たぶんよくわかっていない。

「世界」とは?(photo by iStock)

これは「神」も同様で、特定の信仰を持たないからといって無神論者とは限らないし、そもそも「神」という語が意味するもの/ことだって、さまざまである。それは造物主のことなのか、全知全能なのか、どちらか片方だけなのか、神が存在するのなら、どうして世界はかくのごとき状態になっているのか、云々。

「無限と有限」ということも考え出すとむつかしい。「無限」のやばい(!)ところは、無限なのに「無限」とは言えて(書けて)しまうことである。無限以外のものはすべて有限ということになるが、有限が無限を超えたり含んだりすることはないのだろうか。むろん定義上はないと言えるのかもしれないが、有限の何かが、全体に対して部分であるはずのものが、それの臨界、限界、境界だと思われていた縁をあっけなく突破してゆくという事態が、時として「芸術」には生じるのであって、その中には「小説」という試み/営みも含まれている。