「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか?

『アメリカン・マインドの甘やかし』(2)
ベンジャミン・クリッツァー プロフィール

後述するアイデンティティ・ポリティクスの問題も影響して、「マイノリティであるか、マジョリティであるか」というアイデンティティや力関係の違いが過剰なまでに重要視される風潮がアメリカにあることはたしかだ。日本でも、近年ではマイノリティに配慮を行う必要性への意識の高まりや、マジョリティとしての特権性について自覚するなどの風潮は、一部の知識人・文化人や若者たちの間には見受けられる。

しかし、それはあくまで一部であり、TVや雑誌などの主流メディアはアメリカと比べるとやはり「鈍感」だ。若者たちも、海外の事情にも敏感であって「マイクロアグレッション」などの最新の概念についても知識を得ている層と、国内の情報ばかりを摂取しており差別問題についてもどう考えればいいかわからないという層に、二極化している可能性がある。

この点については、アメリカがポリティカル・コレクトネス的なトレンドの発祥の地であるのに対して、日本はそのトレンドを「輸入」する立場である、という違いも関係しているだろう。

 

部族的な対立

同書が紹介する三つ目の不真実は、「私たち対やつらの不真実:人生は善い人々と悪い人々との闘いだ」である。

ハイトが著書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(紀伊國屋書店)で論じたように、人間の道徳心は、集団内での秩序を維持するためだけでなく集団間での競争を有利にするためにも発達してきた 。そのため、道徳には「人々を結びつけると同時に、人々を盲目にする」という特徴がある。「私たち」と見なしあった人たちが内輪で互いに配慮しあって共通の目的のために協力することと、「やつら」と認定した人たちを敵視してなんの配慮もせずに苛烈な攻撃を加えることとは、表裏一体なのだ。

ある問題が「私たち対やつら」という枠組みで見られるようになると、「やつら」に対して配慮をしたり妥協や和解の姿勢を示したりすることは、「私たち」に対する裏切り行為だと見なされるようになる。これでは、社会問題に現実的で有意義な解決策をもたらすことは不可能だ。

また、異なる意見を持つ人同士の理性的な対話が重要となる学問の世界においても、「私たち対やつら」という構図で物事をフレーミングしないことは前提とされるはずである。しかし、近年のアメリカの大学では部族的な対立が活発化している。

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