「ポリコレ」を重視する風潮は「感情的な被害者意識」が生んだものなのか?

『アメリカン・マインドの甘やかし』(2)
ベンジャミン・クリッツァー プロフィール

以前、私が本サイトに寄稿した記事では、学生たちと異なる意見や価値観を抱く教授や論客が授業をしたり講演を行ったりする機会そのものを奪う行為である、「ノー・プラットフォーミング」の問題について紹介した。ノー・プラットフォーミングは右派の学生によっても左派の学生によっても行われているが、2013年以降、左派によるノー・プラットフォーミングは急増している、と同書は主張する。

この事実は、マイクロアグレッションに代表されるような「感情的推論の不真実」が、特に左派の学生によって信じられていることを示唆していると著者らは言う。彼らの運動の背景には、「右派や保守の論客は、ただ単に自分たちと異なる意見を持つのではなく、自分たちを不快にさせて傷つけるような主張をしている。それならば、彼らは“危険”な存在なのであり、排除されるべきなのだ」というロジックが存在することが推察されるからだ。

 

日本の「鈍感さ」

「感情的推論の不真実」は、日本にも存在するだろうか? 同書からいったん離れて考えてみよう。

日本において、いわゆる「ポリコレ」的な主張や言動が批判されるときには、それらの主張が「感情的」であることを指摘する 、という批判が多い。「自分はハラスメントや差別によって傷ついた」ということを表明する主張に対しても、「主観的で感情的な議論だから、正当性がない」とされがちであるのだ。

「感情的」という単語が批判の言葉として通用するということは、逆に考えると、日本では「感情に基づいた主張は間違っているのであり、主張は理性や論理に基づかなければいけない」という規範が浸透している、という事実を表している可能性があるだろう。

また、ルキアノフやハイトは「マイクロアグレッション」という概念を辛辣に批判しているが、在日アメリカ人として生きている私の身からすれば、「マイクロアグレッション」という言葉が適切に指し示すような事態はたしかに存在するように思える。在日コリアンである人がそのような事態に直面する機会は私よりもさらに多いであろうが、明確な差別が存在するように思われる場合であっても、批判や告発の声が「感情的」とのレッテルを貼られて封じ込められる事例は多いようだ

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