ダーウィン主義の失墜
リチャード・ドーキンスは1976年の『利己的な遺伝子』で、「哲学と『人文学』と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育が行われている」と嘆いた。
この状況はその後大きく変化したが、僕が哲学専攻の院生だった1990年代前半頃はまだ、少なくとも僕の周囲では、ダーウィンといえば博物学者であり、深遠な哲学的議論で引き合いに出されるような名ではない、と思っている人が多数派だったように思う。

人文・社会科学の分野で「ダーウィンなど存在したことがないかのような教育」が行われてきた状況には、それなりの前史がある。
まずは『ダーウィン革命の神話』のボウラーが言う「ダーウィン主義の失墜」がある。
ダーウィンによって「進化論」自体は19世紀中盤に定着したが、そこで受容された進化論は「非ダーウィン的進化論」であり、ダーウィンが進化のメカニズムとして提起した「自然選択説(自然淘汰説)」は、20世紀半ばに「進化の総合説」として復活するまで、「葬り去られた理論」と見られ、多数派から顧みられなかった(実際には彼らの方が古い思考に囚われていた)。
その後の浸透の度合いも分野や地域で差があり、特に非英語圏での浸透は遅かった。たとえば日本の生態学では、1980年代までダーウィン主義への「鎖国」のような状況があったとされる。
社会ダーウィン主義
他に、経済格差、差別的政策、植民地支配などを「競争による進歩こそ自然の摂理だ」のような漠然とした理屈で正当化する、総称して「社会ダーウィン主義」と呼ばれる粗雑な思想が19世紀後半から流行し、本来のダーウィン主義の評判を落としていた、という事情もある。
ナチス・ドイツの残忍な人種差別政策の背景にも、これらを含む「生物学主義」があり、それゆえ第二次大戦後、人間(特に人種)の生物学的研究はタブー視され、代わりに「文化主義」を基盤にした人間研究が興隆し、マイノリティの解放やヨーロッパ中心主義の見直しなどとも連動して発展した。
つまり人文・社会科学には、ダーウィンの名を積極的に遠ざけてきたところがあった。