1980年代の東京・山谷。混沌としたこの街で、今では共に絶滅危惧種となった「暴力の権化」ヤクザと過激派が激突したことがあった。近刊『ヤクザと過激派が棲む街』で、この「戦争」とさえ呼べる激しい衝突を取材したフリージャーナリストの牧村康正氏が、当時の様子を活写する。
「ヤクザ」と「過激派」がまともにぶつかったら、どちらが勝つか。
——この問いに、あたかも異種格闘技を観るような興味をかきたてられても不思議ではない。両者は思想信条においては右と左の対極に位置しながら、ともに暴力を最大限に肯定する集団と見られているからだ。
いまから40年ほど前の1980年代初頭、日本国粋会金町(かなまち)一家と山谷(さんや)争議団が、日雇い労働者の街・山谷(東京都台東区)で本格的な抗争を起こした。
金町一家は博徒の老舗組織として名高いが、あらたな利権を求め、寄せ場(日雇い労働市場)への進出を狙っていた。一方、新左翼過激派を主体とする山谷争議団は、ヤクザ系列の悪質な建設業者を追及し、戦闘的な労働争議を敢行していた。
金町一家と争議団の対立は徐々に深まり、ついにヤクザと過激派が、寄せ場の支配権をめぐって正面衝突したのである。この戦いは「金町戦」あるいは「金町戦争」と呼ばれ、二人の死者を出すほど激しく、かつ長期にわたるものになった。
金町戦の初戦は意外にも山谷争議団の圧勝だった。金町一家傘下の西戸(にしど)組は右翼政治結社・皇誠会(こうせいかい)を創設し「打倒!争議団」の尖兵に仕立てたものの、山谷の中心点に当たる泪橋の対決(1983年11月3日)であっけなく敗れたのだ。皇誠会は争議団と労働者の連合軍に押しまくられ、新造の街宣車まで燃やされる始末となった。
ヤクザの面子(めんつ)を丸つぶれにされた西戸組は、すぐさま報復を宣言した。以下、西戸組が貼り出した殺人予告のビラである(原文ママ、実名部分のみイニシャルで表記)。