真珠湾攻撃にも参加した九九式艦上爆撃機(写真は空母「飛龍」所属機)

【戦争秘話】真珠湾攻撃に参加した若き搭乗員がもらした意外なひと言

戦後、医師となった艦上爆撃機搭乗員

昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍部隊のマレー半島・コタバル上陸、海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られた。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまう。「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に向かう日本海軍機動部隊が、択捉島(えとろふとう)単冠(ひとかっぷ)湾を出撃したのは、いまからちょうど79年前、11月26日のことである。だが、作戦に参加する搭乗員のなかには、なおも開戦に懐疑的な思いを抱く者もいた――。

 

戦後60年間、一切戦争を語ることはなかった

「私はね、攻撃の前の晩寝るまで、『引返セ』の命令があると思っていました」

と、本島自柳(もとじま じりゅう)さんは語った。真珠湾攻撃60周年を間近に控えた平成13(2001)年初夏のことである。

「日米交渉がうまくいったら引き返すこともあり得ると聞かされていたし、こんな簡単に大いくさを始めていいんだろうか、そういう感じは持っていましたからね」

本島さんは、旧姓名大淵珪三(おおぶち けいぞう)。海軍兵学校出身(66期)の元海軍少佐で、中尉だった昭和16年12月8日、空母「赤城」艦上爆撃機(艦爆・急降下爆撃機)隊の分隊士(分隊長の補佐)として真珠湾攻撃に参加、その後も多くの激戦をくぐり抜けた人だが、戦後、医師となり、古くからの医家に養子に入って姓名ともに改名したために、それまで取材者の目に留まることもなく、この日まで外に向かって戦争体験を語ることはなかった。

真珠湾攻撃に出撃直前の大淵珪三中尉。当時24歳

その頃、真珠湾攻撃の生存関係者を取材していた筆者は、本島さんの海軍兵学校の後輩で、戦死した兄が本島さんのクラスメートだった岩下邦雄さん(元大尉)の紹介で、本島さんがかつての大淵珪三少佐その人であることを知り、インタビューを申し込んだのだ。

本島さんは大正6(1917)年6月、群馬県に生まれた。

「私はもともと、軍人が嫌いな母の意向もあって医者になるつもりで勉強していたんですが、中学校の担任の先生に、海軍兵学校の試験は受験料がタダだから、腕試しのつもりで受けてみないかと言われ、受けたら合格してしまったんです。それで、ここで決めれば受験勉強から解放されると思い、進路変更して入校することにした。だから、けっして『忠君愛国』のほうではなかったですね」

昭和10(1935)年、大田中学校から海軍兵学校に入校。昭和13(1938)年9月に卒業すると、練習艦「八雲」で練習航海ののち、戦艦「霧島」、巡洋艦「加古」乗組を経て、昭和15(1940)年4月、飛行学生となり、飛行機搭乗員になるための訓練を受けることになった。

飛行学生は、途中で「操縦」と「偵察」のコースに分かれる。自分で飛行機を操れる操縦希望のクラスメートが多いなか、本島さんは、

「自動車に乗るのでも社長は後席。指揮官は運転席よりも後席のほうがいい」

と考えて、偵察員を志望。陸上攻撃機など大型機の配置を望んでいたが、昭和16(1941)年4月、宇佐海軍航空隊で実用機課程を修了するとき、命じられた次の配置は空母「赤城」艦爆隊だった。機種は、2人乗りの九九式艦上爆撃機である。

九九式艦上爆撃機(写真は空母「飛龍」所属機)

「偵察員にとって、急降下爆撃から機体を引き起こすさいにかかるG(重力)は、慣れないうちは相当体にこたえます。これは大変なことになったと思いましたが、命令ですから致し方ありません。同期生2名とともに『赤城』に着任しました」

空母「赤城」。真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで、機動部隊の旗艦だった

「赤城」は「加賀」とともに第一航空戦隊(一航戦/いちこうせん)を編成し、また、空母部隊の集中運用のため新設された第一航空艦隊(一航艦/いちこうかん)の旗艦となった。本島さんは、「赤城」ケプガン(ガンルーム〈士官次室〉の長)となった。ガンルームとは、若手の中尉、少尉、少尉候補生の居室である。大きな艦だけに「赤城」には120名もの初級士官がおり、食事のときなど壮観だった。