現在のアトリエに置かれている三島をイメージしたブロンズ像2体と頭部の石膏原型 撮影/堀晃和

裸体像制作の彫刻家が語る「50年前の三島由紀夫」

「三島さんは会うなり裸になってポーズをとった」 
作家、三島由紀夫が45歳で亡くなって今年で半世紀が経つ。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地(東京都新宿区)で、割腹自殺を遂げたのが1970(昭和45)年11月25日。この日はその後「憂国忌」と呼ばれ、三島を追悼する人々が毎年集う。

三島は死の3日前まで、ある彫刻家のもとに毎週、通い続けていた。自らをモデルとした裸体のブロンズ像を制作するためだ。彫刻家は、後に日展理事も務めた分部順治(1911~95年)。助手として制作を支えたのが彫刻家の吉野毅(77)だ。

「アトリエに入ってくるなり、挨拶もそこそこに、裸になって鏡の前でポーズをとりました」。三島と初めて会ったときの光景は、吉野の脳裏に今も鮮明に残る。吉野の証言をもとに、50年前のあの日々をたどる。

1970年1月、三島はアトリエに現れた

70年1月下旬。東京都練馬区にある分部のアトリエに、三島が訪ねてきたのは午後7時だった。

親交のあった日本画家の杉山寧(1909~93年)から、三島をモデルとした彫刻の依頼があったのは前年の暮れだった。三島の夫人は杉山の長女。三島は「男性像は、分部さん以外にいない」との推薦を杉山から受けていたようだ。

「一人では心細いから早く帰ってきてくれ」。当時、母校の東京芸術大学で副手として在籍していた吉野は、分部からこう言われていた。前年、芸大の同級生だった分部の長女と結婚し、同居していた吉野は義父の求めに応じる。「像を制作するのはオヤジ(分部)ですが、相手は超有名人だから気後れするので、初対面では僕にも一緒にいてほしかったんでしょう」

Photo by gettyimages

石油ストーブをつけて、アトリエを暖めて待った。分部の妻に案内されて現れた三島は挨拶もそこそこに、壁掛けの大きな鏡を見つけると、突然、服を脱ぎ始めた。全裸になってポーズをとると、「これでどうでしょうか」と、呆気にとられる2人に向かって話しかけた。

「普通じゃないと思いました。だって、きょうは打ち合わせだと思っていたんです。それなのに、会うなり裸になってポーズを取ったのですから」

身体を少しよじって、腰の位置で両腕を後ろに回し、視線を斜め上に向け、両方の踵を軽く上げた姿勢。三島の口から具体的な説明はなかった。ただ、後になって気づくのだが、イタリア・ルネッサンス期の代表的画家、マンテーニャ(1431~1506年)が描いた「聖セバスチャン」そっくりに見えた。