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炎上騒動に集う人々に“決定的に足りないもの”とは何か

されど、始まりの村

非言語と言語化の極みの間で

羽田から伊丹に向かう満席の飛行機の中で、こだまさんの新しいエッセイ集『いまだ、おしまいの地』を読んでいた。

空港のゲート付近の席は、“social distance”と書かれたシールによって、2席おきにしか座れなくなっていたのに、飛行機がぎゅう詰めの満席だったらあんまり意味ないんじゃないかと思うけど、そういうツッコミどころがあっても、最近は面白おかしく話すことは時代の気分じゃないらしく、真剣な抗議か黙る善意を見せなきゃいけないようなので、誰も文句は言わない。

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でも、私の右斜め後ろで父親の腕に抱かれた子供が、離陸前から着陸直前の今まで泣き狂っていて、そうだよね言いたいことあるよね、と飛行機の中のみんながその泣き声に自分の人生を代弁させているような気もした。

良い言葉を知らないまま、作りかけの言葉をネット上に撒き散らかし、言語を泣き声の代わりに使っているような人よりは、良い言葉を知らないと言うことをかくしもせずに、泣き声を言葉の代わりに使っているこの生き物の方が、表現者としては優れている気がする。

世の中の「怒りの声」や「悲しみの声」のほとんどは、単なる悲鳴にも満たない稚拙な表現ばかりだし、それなら悲鳴の方がわかりやすいし、そもそも私は静かなところでしか過ごさないような贅沢な人生を送っていないので、合いの手は入れないまでも、耳をつんざくギャン泣きをちょっとも聞き漏らさすことなく、そのエッセイの名手の本を読み、コーヒーを飲んで、また読み進めた。

右後ろに非言語の極み、手に挟んだ本に言語化の極み、その間で私はシートベルトをして、航空会社に運命を委ねる。

私の隣に座る40代後半か50代くらいの男は、しばらくスマホを覗き込んで何やら読んでいたが、そのうち不機嫌そうに耳栓をして寝てしまった。でも、どこかのホテルか飛行機で無料で配られたような安い耳栓だったから、スマホで何かをブロックすることに比べればそれほど遮断されないだろうし、大阪に着いたら否が応でも起きて耳栓を取るのだろうし、そのオジサンを見る限り、人はまだまだ世界からそう断絶はされていないような気もした。