哲学者が『鬼滅の刃』3巻24話から考える「物事を正しく理解する仕方」

意味は「全体論的に」理解される
山口 尚 プロフィール

けっきょく母は神戸市の私立の女子大に入学することになる。これは学力に自信のあった母にとって悔しい出来事であったにちがいない。入学後のしばらくのあいだは鬱々としていただろう。自分はここにいるはずの人間でない、と考えていたかもしれない。

ここから話はどう進むか。神戸で大学生活を過ごしていた母は、あるとき、三宮か元町あたりの古本屋に行った。中身を見てみたい本があったが、函(はこ)から出ない――本と函がジャストフィットだったのである。本を取り出そうと格闘する母を大柄な男性がたまたま見ていた――彼は小柄な女性を手伝う。けっきょく本は取り出すことができたのだが(それを購入したかどうかは聞いていない)、本屋をあとにして街を歩く母はふたたびさっきの男性と出会った。これが後に私の父になる。

 

人生の出来事の「意味」はどう決まるか

私がいま存在する視点から母の受験の失敗という出来事を眺めれば、そこに当時の母が決して付与しなかったであろう意味を見て取ることができる。じつに、母が岡山大を落ちて神戸で暮らしていたからこそ、私はいま存在しているのだ。

こうしたことを考えると自分の存在の不確かさに戦慄してしまうが、同時に次の点も指摘できる。すなわち、人生における出来事の意味合いもその後何が生じるかによって変わりうる、と。これは母にとってもそうであろう。志望校に落ちて間もない母と、父と出会った後あるいは私を生んだ後で人生を振り返る母とでは、大学受験の失敗に関する意味づけは大きく異なるはずだ。

私は必ずしも《岡山大を落ちたことは母にとって幸福なことだった》と言うつもりはない。もしかすれば受かっていたほうが幸福な人生を送れたかもしれないし、そもそもふたつの人生に含まれる幸福の量を単純に比較することなどできない。ここではむしろ出来事の「意味」が問題になっている。

或る出来事が人生においてどのような意味をもつかは、その出来事だけを切り取っても分からない。それはむしろ人生の大きな流れの中で決まってくる。人生の出来事の意味もまた「全体論的に」理解せねばならないのである。

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