哲学者が『鬼滅の刃』3巻24話から考える「物事を正しく理解する仕方」

意味は「全体論的に」理解される
山口 尚 プロフィール

以上のような点を考慮すれば、連載途中で作品の質を評価することはなかなか難しいと言わざるをえない(ひょっとしたら不可能かもしれない)。例えば横田卓馬の『背すじをピン!と』(集英社)という作品がある。私はこれを連載開始時からジャンプで楽しんでいたが、作中の或る人間関係(部長と副部長の関係)がギクシャクし始めたあたりから読み続けるのがつらくなった――心が痛かったのである。

とはいえ、後のストーリー展開はそうしたギクシャクもいわば「回収」し、作品全体はまったく爽快に読めるものに仕上がっている。中途の印象もまた当てにならない、ということだ。

かくして、かつてお気に入りだった作品が現在の連載においてつまらなくなっている、というひとがいるとすれば、しばらくの辛抱をお勧めする。というのも、それはまた面白くなる可能性があるし、その場合には、いま「つまらない」と感じているシーンすらも面白く感じられるかもしれないからである。

連載という公表形態は、良きにつけ悪しきにつけ、作品を「断片化」する。それだからこそ、連載漫画を読むさいには、《作品評価は全体論的(holistic)であるべきだ》というマキシム(格率)を心のどこかに留めておきたい。

 

哲学書の読み方

似たようなことは哲学書を読むさいにも生じる。この文章を読まれる皆さんのなかには、かつて哲学書を読もうとしたが、冒頭でただちに内容を追えなくなって、わずか数ページで放り出してしまったという経験があるひとがいるかもしれない。じつを言えば、これは哲学書にかんして或る意味で「自然に起こりうる」ことなのである。

私はすでに20年以上も哲学をまなんでいるが、今でも初めて読む哲学書の出だしが何を言いたいのか分からないというのはよくある。例えば20世紀前半の批評家ヴァルター・ベンヤミンの哲学的著作である「運命と性格」は「運命と性格はふつう因果的に結ばれたものと見なされており、性格が運命のひとつの因子になると思われている」という一文で始まるが(野村修編訳『暴力批判論 他十篇』、岩波文庫、1994年所収、13頁)、これだけ読んでも読者の反応は「お、おう……」であろう。

たしかに、いま引いた文には意味不明なテクニカルタームは用いられておらず、〈運命〉と〈性格〉について語られていることは分かる。とはいえ《この文はどういう意図で書かれているか》と問われれば答えに困ってしまう。

編集部からのお知らせ!

関連記事