リベラルは「価値観の押し付け」「上から目線」なのか? この思想の「意外な本質」

「リベラルな徳」とな何か
小川 仁志 プロフィール

なぜ政治は、国家は、個人の自由を重視しなければならないのだろうか? それは一人ひとりの考え方が異なるにもかかわらず、共存していかなければならないというところに理由がある。

とするならば、個人の自由を重視するリベラリズムは、本当は一人ひとりの権利主張を認めるという思想ではない。ここはよく誤解されているところなのだが、一人ひとりのわがままをすべて聞いていては、一つの共同体としてまとまることは不可能だ。

またその意味で、リベラリズムには価値中立性が不可欠であるという認識も誤っている。そうではなくて、一人ひとり考えが違うにもかかわらず、むしろいかにしてその様々な価値を共有できるか考えることこそがリベラリズムの本質なのである。

 

リベラルな徳

マシードの説く「リベラルな徳」が、ここで時代の文脈を超えてヒントを与えてくれる。政治哲学や政治思想に明るい方ならすぐに察しが付くと思うが、リベラルとは一般に価値中立性を意味する用語であり、徳とはその反対に個々人が重視している一定の価値や、それに基づく生き方についての信念などを意味する用語である。したがって、「リベラルな徳」という表現はいかにも矛盾した概念に聞こえるだろう。

しかしそれはまったくの誤解である。マシードは次のように言っている。「リベラリズムは、公共的価値の間で本当に中立ではありえない。それは、個人の自由および責任、変化と多様性に対する寛容、およびリベラルな価値を尊重する者の権利の尊重について、一定の公共的価値の至高の価値を支持するのである」と。

リベラリズムとは、むしろ個々の市民が異なる価値観をすり合わせながら、一つの共同体で共存していくための仕組みにほかならない。したがって、個々人が徳を語ってはいけないのではなくて、逆に徳を語ることで、それがいかに共有可能なものであるか吟味することこそが求められるのである。