リベラルは「価値観の押し付け」「上から目線」なのか? この思想の「意外な本質」

「リベラルな徳」とな何か
小川 仁志 プロフィール

かつて私はそのような疑問を抱いたことがある。ヘーゲルの共同体論を学び、博士論文を書いた後、さらに共同体理論の研究を進めていた頃だ。そんな時、たまたま出くわしたのが、当時未邦訳だった『リベラル・ヴァーチューズ』、つまり『リベラルな徳』という魅力的なタイトルを冠した本だった。

著者はアメリカのプリンストン大学の教授で、リベラリズムを刷新しようと試みていたアメリカ政治哲学界の重鎮の一人、スティーヴン・マシード。その本を読んだ私はすぐに彼の門を叩き、教えを乞うことにした。そして直接会って議論する中で、1年ほど彼の下で研究をする確約まで得てしまった。2011年、私は実際に彼の下で1年間の在外研究を行い、2014年には『リベラル・ヴァーチューズ』の邦訳を刊行するに至った。

 

マシードは一見、矛盾に満ちた「撞着語法」とも思われるこの「リベラルな徳」という表現を、あえて積極的に打ち出すことで、リベラルの刷新を目論んでいた。この本の原著は1990年に出されたものなので、もう出版から30年の月日が経過している。しかし、邦訳の出版当時も、そして今でさえもそのアクチュアリティは失われていないといえよう。

だからこそこのリベラルの危機といってもいい時代に、マシードの議論が参考になると思うのである。ただその前に、今私たちに課されている問いを再度明確にしておきたいと思う。私たちが今改めて問うべきなのは何か? それはリベラルという、もはや空気の如く当たり前のものになってしまった用語に込められた意義を、再度問いに付すことである。

リベラル、つまりリベラリズムとは、よく自由主義と訳されるように、個人の自由を重視する思想であったことは間違いない。しかし、まさにその個人の自由を重視するということがどういうことなのかが問われなければならないのだ。