リベラルは「価値観の押し付け」「上から目線」なのか? この思想の「意外な本質」

「リベラルな徳」とな何か
小川 仁志 プロフィール

この状況に対する処方箋は二つ考えらえる。一つは、リベラルをあきらめて、それにとって代わるような新たな政治哲学を提起するアプローチである。もう一つは、リベラルそのものの本質に立ち返って、それを刷新するというアプローチである。

もちろん新たな何かが見つかればいいのだろうが、ことはそう簡単ではない。それ以上に、私自身はリベラルにはまだ可能性が残されていると信じている。そこで本稿では、なんとかリベラルの再構築を図る方途を探りたいと思う。

 

リベラルの再構築

実はリベラルの再構築が求められる状況は、今日に始まったことではない。つまり、21世紀に入って、とりわけここ数年ポピュリズムが席巻することによって初めて議論されるようになったわけではないのである。

少なくとも欧米では、すでに1980年代に激しい論争を巻き起こしていたといっていいだろう。いわゆるリベラル・コミュニタリアン論争と呼ばれるものである。個人の自由を重視するリベラリズムに対して、共同体の価値を重視するコミュニタリアニズムが、その抽象性を指摘して議論が巻き起こったのだ。

なぜなら、個々人が集まって一つの共同体の中で共存していくためには、本来その共同体に通底する共通の徳や価値観のようなものを共有すべきはずだからだ。しかし、個々人の自由を重視すると、自由と「共通の徳や価値観」の間には矛盾が生じてくる。だからリベラルの主張に従うと、個々人は抽象的存在にならざるを得なくなる――というのがコミュニタリアンからの批判だった。

はたして本当にそうなのだろうか? リベラルの思想において個々人が抽象的存在であるという点については、筆者自身そうは思えないだけにどうもひっかかる。それ以上に、これだけ世の中に広がっているリベラルという思想が、本当に共通の徳を抱くことを許さない性質のものなのかどうか。