賽銭泥棒「逮捕の瞬間」を、顔出し・実名で報じたテレビ局への「強烈な違和感」

「背景への想像力」が必要だ
白波瀬 達也 プロフィール

掛川氏が述べるように、賽銭泥棒をした男性に欠けているのは安心して暮らせる環境を整えるための福祉的なサポートであり、社会的繋がりなのだ。この発想がない限り、窃盗せざるを得ない状況は変わらず、犯行が繰り返されるだけだ。

この神社だけでなく各地で賽銭泥棒が頻発しているということは、社会から排除され、日々の生活がままならない困窮者が溢れている証左でもある。このような状況にもかかわらず、先の賽銭泥棒の報道は、過度に単純化された勧善懲悪の世界を再生産してしまっている。

 

宗教者は「困った人」にどう向き合うべきか

今回の賽銭泥棒の報道では警察の対応とテレビ局の報道の仕方が何よりも気になる点であったが、同時に宗教者のあり方についても考えさせられた。被害にあった神社の神職は、テレビ局のインタビューに対して「数百円の被害のために、警察がこれだけのことをやってくれてありがたい」という趣旨の発言をしている。確かに日常的に賽銭泥棒にあっているのであれば警察を労う言葉が出るのは自然かもしれない。ただし神社に迷惑をかける人を警察が捕まえてホッとした、というスタンスで本当に良いのだろうか。

もちろん神職をはじめとする宗教者も地域に暮らす普通の人間だ。とはいえ宗教者だからこそ困りごとを抱えた人の痛みに丁寧に向き合ってほしい、と筆者は思う。東京で生活困窮者を支援する「ひとさじの会」の代表を務める僧侶で大学教員の高瀬顕功氏(大正大学専任講師)は次のような見解を示す。

「賽銭泥棒に対して神社の神主さんが警察に通報して犯人を逮捕してもらうことは施設管理者の自衛行為として十分理解できます。しかし、宗教者が犯人を警察に通報し、司直の手に委ねるだけでいいのか考えものです。その行為には、聖域にアジール(社会から切り離された避難所の機能を持つ特殊な領域)のような機能はなく、世俗の法よりも自らは下位にあると暗に認める姿が投影されているような気もします。

賽銭泥棒を犯罪としてではなく『SOSのサイン』としてみることはできないでしょうか。宗教の役割のひとつに世俗の価値とは違う価値を提示することがあるのではないのかと。残念ながら宗教者自身がそういう役割に無自覚的かもしれません」