photo by iStock

「ステイ・ホーム」から考え直す、「家」と暮らしの経済思想

暮らす安らぎや、温かさを肯定する経済
新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、「ステイ・ホーム」が掲げられた2020年。コロナショックが突き付けてきたのは、近現代のライフスタイルや従来の学問領域で軽視されてきた、「暮らす」ことや「住まう」ことを、見つめなおすことでした。
今こそ、「家」や「暮らし」を重視した経済思想を読み解いていくことが重要ではないでしょうか。
『経済学の堕落を撃つ 「自由」vs「正義」の経済思想史』著者の中山智香子さんによる論考です。
 

「暮らす」ことが、蔑ろにされてきた

2020年の新年を祝ったとき、おそらく誰も、こんな1年を経験することになるとは思わなかっただろう。新型コロナウィルスcovid-19のパンデミックは、世界中を文字通り未曽有の状態に陥れた。そして昨今、北半球の季節が秋から冬へと向かう中で、「ステイ・ホーム」の呼び声がふたたび日本にも忍び寄りつつある。

ヨーロッパの諸国では、すでにそれが国家からの措置として明示され、「安全のために仕方ない」という諦めと、どうもそれ以上の「2度目はきつい、もう我慢に疲れた」という悲痛な声が、断片的に聞こえてくる。

「ステイ・ホーム」はもちろん、家にいなさいという身体の拘束命令である。外に出て働かなくてよいことは、ある種の特権であると考えることもできようが、一定の空間に長時間、閉じ込められると感じれば、単に窮屈でしかない。誰かと会いに出かけて語り合い、食事をともにし、肩をたたき合ったり抱きしめたりして触れ合う機会を奪われることは、人間の社会性にとっては、むしろ致命的ともいえるだろう。

このような風景も奪われている(photo by iStock)

ところがそうした行為は、実は家でもできるし、本来はむしろ家で行われてきたことでもあった。すなわち「暮らす」こと、「住まう」ことは、近現代のライフスタイルにおいて、またそれを扱う学問領域において、ずいぶんと蔑ろにされてきたのである。コロナショックがわたしたちに突きつけたことの一つは、家、ホームを見つめ直すことであった。

「家政」ということ

コロナ禍の状況で「ステイ・ホーム」を肯定的に語ろうとすると、それをできないエッセンシャル・ワーカーに配慮せよという警告が、すぐさま脳裏に浮かんでくる。

家族がよいものとは限らない事例も、さまざまに示されてきた。さらに悪いことに、日本文化の伝統的文脈における「家(イエ)」は、個人の自由を奪う旧態依然の差別の権化たる家父長制を、分かちがたく想起させる。実際、在宅勤務の普及はきわめてしばしば、女性たちの負担とストレスを増大させたようだ。

それでもなお、家そのものや「住まう」こと、「暮らす」こと自体に責任があるわけではない。ホーム「レス」でないこと、つまり雨露をしのぐ家があることは、誰にとっても基本的な安心感を与えるものだろう。また家の切り盛りという意味での「家政」は、それ自体として、また都市や国家単位の経済へのアナロジーとしても、そもそも人間の経済活動において重要な意味をもってきたのであった。

「家政」は日本語においては、学校の家政科という科目や、家政婦という仕事の名前にみられるぐらいで、あまり日常的にはお目にかからない言葉かもしれない。しかし経済思想の領域においては、避けて通ることのできない言葉である。

「経済」と日本語で訳される「エコノミー(oekonomie)」の語源は、ギリシャ語のoikos(オイコス)プラスnomos (ノモス、法律や掟)であり、oikosは家を意味するので(某乳製品ではない)、「エコノミー」は家の法律、掟という意味となる。つまり経済の概念そのものの中に「家」、「オイコス」が含まれているといえるのである。ここから「オイコノミア」という言葉を、「家政」をふくんだ広義の「経済」として用いる場合も少なくない(これまた、かつて放映された某テレビ番組の専売特許ではない)。

そしてこのことにまさに正面から取り組んだ経済学者が、カール・ポランニーであった。