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「民主主義の国・アメリカ」の誕生を宇野重規が読み解く

大統領選挙を正しく考えるために
今年の大統領選でも民主党・共和党による熾烈な争いが繰り広げられたアメリカ。各州ごとに選挙人を選ぶ方法にも注目が集まりました。なぜ、このような政治体制と選挙システムになったのか?そして、アメリカの「民主主義」はなぜ当然のものとされているのか?政治学者・宇野重規氏は、アメリカ「建国の父」たちが本来目指していたのは「民主主義」ではなかったと言います。大統領選挙を考えるためにも知っておきたいアメリカ民主主義の成り立ちについて、重版連発中の新刊『民主主義とは何か』からその一部を特別公開します。
 

「民主主義の国」という神話

1776年、英国の統治下にあった北米の13の植民地が独立を宣言します。

後にアメリカ合衆国の第3代大統領となるトーマス・ジェファーソンを中心に独立宣言が起草され、7月4日に大陸会議で採択されました。

とくに、「すべての人間は生まれながらにして平等である」と説き、「生命、自由、幸福の追求」を人間の不可侵の権利と謳った前文が有名です。

ジョン・ロックの思想的影響が強くみられるこの宣言は、日本国憲法を含め、世界の多くの国々の憲法に影響を与えました。

さらに1787年には、フィラデルフィアの憲法制定会議でアメリカ合衆国憲法が採択され、翌年に批准されています。古きヨーロッパから独立した新しい国の憲法は、現在では世界最古の成文憲法となっています。

結果として、アメリカ合衆国憲法は持続性の高い「自由の体制」を打ち立て、アメリカ合衆国といえばその出発点から「民主主義の国」であるというのが、一般的なイメージでしょう。

しばしば神話化されて語られるアメリカの建国ですが、はたしてそういい切れるのか、あらためて考える必要があります

例えば1787年の合衆国憲法には、悪名高い「5分の3条項」がありました。憲法には奴隷制についての明示的な言及はありませんでしたが、「その他の人々」という表現が含まれていたのです。

しかも下院議員の定数の算定にあたっては、黒人奴隷は一人の人間ではなく、5分の3人として数えられていました。この条項がようやく廃止されたのは、南北戦争後のことに過ぎません。

妥協の合衆国憲法

ある意味で、アメリカ合衆国憲法は妥協の産物です

フィラデルフィアの憲法制定会議で採択された際にも、独立13邦のうち9つの邦で批准されれば、この憲法は発効することになっていました。結果的には13すべての邦で批准されたのですが、はたしてこの憲法案がすべての邦で認められるのか、最後の最後まで予断を許さなかったのです。

フィラデルフィアのあるペンシルバニア州は、今回の大統領選でも激戦となった(photo by gettyimages)

なぜ、憲法案の批准がそれほど難航したのでしょうか。

重要なのは、13の植民地のそれぞれが、固有の憲法をもつ独立した国家(State)であったことです。一例を挙げればマサチューセッツ州の正式名称は、現在でもCommonwealth of Massachusetts です。文字通りに訳せば、「マサチューセッツ共和国」でしょう。

その意味でいえば、独立当初のアメリカ合衆国(United States of America)とは、まさに独立国家の連合体でした。

イメージとしては一つの国であるというより、現在の国際連合に近い存在であったといえるでしょう。独立後に作られた連合規約にしても、憲法というより国際条約としての側面が強かったのです。

結果として、中央政府である連合会議には、課税権も、通商規制権も、そして何より常備軍をもつ権利がありませんでした。このままでは、ヨーロッパ諸国との緊張が続くなか、アメリカは自らの独立を維持することができず、解体してしまうかもしれない。そのような危惧が連合の指導者の間に強まります。

国家連合ではなく、連邦国家としてのアメリカ合衆国をあらためて打ち立てるという決意の下、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれたのです。

この会議で憲法案が採択された後も、それが各邦によって批准される保証はありませんでした。各邦にとって、連邦政府が強い権限をもてばもつほど自分たちの権限が小さくなります。警戒感が募るのは当然でした。

憲法案では、連邦政府の権限は明確に条文に列挙されたものに限定され、それ以外は州の主権に留保されることになっていました。また人口の多い州と少ない州の立場に配慮して、上院議員の定員は人口にかかわらず各州同数とされ、下院は人口に応じて配分されました。さらに、上院議員は州議会によって選出されることにしました(現在は直接選挙)。

このような妥協や配慮にもかかわらず、新たな連邦政府への疑念は強かったのです