一攫千金を夢見て「クジラの町」から世界へ渡った日本人移民の「戦争の記憶」

アメリカでは「反日感情」が高まり…

コロナ禍により、一時的に外国人に対して国境を閉ざした国は多い。日本でも、すでに国内で何十年も生活している永住者を含め、外国人の入国を数か月に渡りシャットアウトしていた。厳しい入国制限により家族が離れ離れになったり、仕事や学業に支障が出たりと、それぞれの人生に大きな影響が出ている。

外国人に限らず、平時にはなんとかバランスを保って共存していた少数派の人々が、緊急時に切り捨てられる構図は過去に何度も起きている。明治時代~昭和の戦後にかけて、海外に渡った多くの日本人移民も、戦争という緊急事態にほんろうされた。彼らは異国の地で非常時をどう生き抜いたのか。当時の移民の家族を訪ね、話を聞いた。

「10年前に来てくれたら…」

クジラの町として有名な和歌山県・太地(たいじ)町。紀伊半島の南東部に位置する、人口約3,000人の小さな港町だ。すぐ北にはマグロの水揚げ量日本一の那智勝浦、南に約30km下ると本州最南端の潮岬(しおのみさき)がある。紀南地方と呼ばれるこれらの地域は、青い海と緑の山々に囲まれ、自然と人が共に暮らしている。

明治以降、ここから多くの若者が一攫千金を夢見て海を渡ったことはあまり知られていない。日本人の移民先といえばブラジルなど南米のイメージが強いが、北米やオーストラリアに渡る者も多かった。

太地町の港。左奥に白い町役場と茶色い公民館が建っている
 

海外で単純労働をしていた日本人たちは、やがて現地に豊富な海の資源があることに気づく。当時、日本と移民先の国との経済格差は大きく、数年働けば故郷に家を建てるのも夢ではなかった。若者達は次々と、出稼ぎ目的で日本を飛び出していった。

正確な人数は分かっていないが、1957年発行の「和歌山県移民史」によると、明治37年(1904年)時点でアメリカに住む日本人移民の数は5万3,000人。そこから毎年1万人ペースで増え続け、4年後には10万人を超えている。

今では彼らの子や孫も高齢化し、当時の生活を知る人は少ない。戦前に両親がアメリカに渡り、自身も海外生まれの吉田伊津子さん(90歳)は、古いアルバムを開きながら幾度となくこう繰り返した。

「10年前に来てくれたらよう。まだ生きてはる人おったのになあ」

自宅でアルバムを眺める伊津子さん。結婚後、太地に住んで60年になる

伊津子さんの父・沖五郎さんは、潮岬の隣に浮かぶ紀伊大島で明治28年(1895年)に生まれた。五郎さんは20代の時、先に移住していた親戚を頼りアメリカへと渡った。

その頃に和歌山出身者が多く住んでいたのが、アメリカ西海岸・カリフォルニア州のターミナル島だ。ロサンゼルス港の一角にある小さな島には戦前、3,000人もの日本人が暮らしていた。男たちは漁に出て、女たちは工場で魚をさばき缶詰を作る。漁師の給料は、農業や料理人といった他の移民の仕事と比べかなり高額だった。

だが、五郎さんは漁師ではなかったらしい。「お父さんは商売しとったと思う。向こうでなんや色々やっとったみたいよ」。伊津子さんは、両親の移民時代のことは詳しく聞いていない。親として子どもに苦労話はしたくなかったのだろうか。

その代わり、伊津子さんの長男の敬さん(61歳)が、祖父である五郎さんから「面白い話」を聞いていた。敬さんによると、五郎さんはアメリカで日本の柔道家を集め巡業をしていた。ある試合中、そのうちの1人が締め技を使い、アメリカの格闘家を気絶させてしまう。それがきっかけでアメリカにいられなくなり、五郎さんはカリブ海の島国キューバへと渡った。

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