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コロナ危機で露呈した「近代の終焉」、クリエイティブな人々が直面する難題

音楽学者が語る「コロナの時代の音楽」

新型コロナウイルスのパンデミックによって、世界中の音楽イベントが中止に追い込まれ、文字通り街から音楽が"消える"事態が長く続いた。

徐々に再開の兆しが見え始めているものの、かつての活況にはほど遠い。演奏機会が激減した音楽家、解散を迫られるオーケストラ、コンサートホールやライブハウスの廃業……状況はひっ迫するばかりだ。

一方で、YouTubeやSpotify、Apple Musicなどに代表されるストリーミング・サービスの普及によって、膨大な録音コンテンツを好きなだけ聴けるようになり、「サブスクリプション疲れ」という言葉も出回りはじめた。

同時進行する"音楽の危機"と"音楽の氾濫"――。歴史的にも例のないコロナ禍の状況は、音楽という文化にどのような影響を与えるのか。新刊『音楽の危機』で、「コロナの時代の音楽」を考察した音楽学者・岡田暁生氏に話を聞いた。

インタビューは2020年10月14日、ZOOMを使用しておこなった(左:筆者、右:岡田暁生氏)
 

オペラの聖地から音楽が"消えた"

――安倍晋三前首相が、記者会見を介さない「談話」の形でイベントの自粛を要請したのが、2020年2月26日のことでした。

その直前にイタリア出張に行っていて、そのときが、今のところヨーロッパで音楽を聴いた最後です。今年の2月22日、ミラノ・スカラ座でした。

ロッシーニ作曲のオペラ「アルジェのイタリア女」の素晴らしい上演でしたが、すでに新型コロナウイルスの危機は忍び寄っていて、「ここでコロナが広がったら、一発(で終わり)だな」とも思っていました。

翌23日には「イル・トロヴァトーレ」(ヴェルディ作曲)を観る予定でしたが、15時の開演前に劇場に着いても、なかなかドアが開かない。直前で中止の判断が下されました。以後、スカラ座は全公演休みとなり、再開場する7月6日まで続きました。

イタリアの話でもうひとつ印象的だったのは、9月4日に、劇場ではなく、ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)で演奏された、ヴェルディの「レクイエム(死者のためのミサ曲)」です。

スカラ座の音楽監督リッカルド・シャイーの指揮でした。動画配信で鑑賞し、とても感動的なレクイエムだと思いました。

普段は劇場でオペラという娯楽音楽を演奏している人々が、歩いて数分の至近距離にある大聖堂で"疫病退散法要"の音楽を奏でる――。クラシックのルーツのひとつが宗教音楽であるという歴史をあらためて想起させる、ヨーロッパの伝統の重みを感じた企画でした。

――コロナ禍の世界、および苦境に立たされる音楽業界をどのように見ていらっしゃいましたか。

これまで漠然と思っていたことが、よりはっきりと見えてきたという感覚をもちました。一言でいえば"近代の終焉"です。

私は、いわゆる「クラシック音楽」に魅了されてこの仕事につきました。クラシックのメインレパートリーというのは、およそ18世紀後半くらいから20世紀初頭に集中しているので、時代区分でいうと「近代」の音楽です。

近代は、ヨーロッパで産業革命と市民革命が起きた時期で、人類がテクノロジーによって社会を変革し、無限に右肩上がりの経済成長をするという神話にとりつかれてきた時代といっていいかもしれません。

クラシック音楽の発展は、こうした「近代の神話」が市民社会に浸透し、世界の覇権を握っていった時代に起こったわけです。

しかし最近は、どうも近代という枠組み自体に限界が近づいてきているのではないか、という思いがぬぐえません。そうした傾向は、今の社会全体に見られます。

そもそも地球の物資が有限であり、人間の能力も有限である以上、「永遠に経済は成長する」などという、かつてのような右肩上がりの「大きな物語」を人々が素直に信じることは難しいでしょう。

文化も社会情勢と不可分のものですから、近代社会の様々な限界がこうして顕わになっているときに、音楽だけそのまま変わらずにいられるはずがありません。

こうした懸念は、実は常々抱いていて、これまでの仕事に共通する隠れたモティーフになっていましたが、音楽の危機ではじめて正面から向き合って考察しました。