「上級国民」への異常バッシング、日本で「加害者叩き」がここまで過熱する理由

日本は「世間」が強すぎる
佐藤 直樹 プロフィール

「法のルール」が支配する欧米の社会では、犯罪はたんに「法のルール」を侵害した行為、つまり違法行為以上のものではない。日本では考えられないが、アメリカの法廷では、短パンに野球帽、「くたばれ警察」(fuck the police )のTシャツを着て被告人が登場することもある。つまり、法廷で「謝罪と反省」が日本ほど求められることはない。

だが日本では、犯罪は「法のルール」に反する行為である以前に、「世間」の秩序や共同感情を侵害する行為とみなされる。すなわち、犯罪がおきることによって「世間」の人々の感情は不安定な状態に置かれる。これが「世間を騒がせた」という状態である。この状態を修復し、「世間」の共同感情を元に戻すために、被告人の「謝罪と反省」が必要となるのだ。

 

「社会は変えられるものだ」という希望の消失

公判で無罪を主張したことで、被告人は謝罪も反省もない一種のモンスターとみなされた。このことは、きわめて憂慮すべき事態の到来を象徴していると思える。それを一言でいえば、この国では社会が衰退しつつある、ということだ。

本件に関して評論家の真鍋厚さんが、哲学者のルネ・ジラールを援用し面白いことを指摘している。ジラールによれば、「法体系をもたない社会」においては、動物やヒトを神に捧げる「供犠」(いけにえ)が共同体内の軋轢や争いの「予防手段」であったが、供犠が失われた近代社会では、「法体系」がその役目を代行する「治療手段」となる、と。

真鍋さんは、わたしたちの社会が「法の機能していない社会」になりつつあり、そのため「刑事司法制度に代表される法体系よりも、人身供犠を切実に必要とするフェーズへと部分的に回帰している」という。そして被告人がモンスターとみなされたのは、まさしくジラールのいう「供犠」の復活を意味するという(「東洋経済ONLINE」2020年10月14日)。