「上級国民」への異常バッシング、日本で「加害者叩き」がここまで過熱する理由

日本は「世間」が強すぎる
佐藤 直樹 プロフィール

もともと「世間」はきわめて古い歴史をもつため、封建的な身分制とは異なるが、「年上・年下、目上・目下、先輩・後輩、格上・格下」などの「身分制」のルールがある。これはイギリスの階級のように固定的なものではなく、相手との関係でその都度形成される流動性をもつ。ママカーストやスクールカーストがその典型である。

さらには、「世間」には「みんな同じ」と考える「人間平等主義」のルールがある。「出る杭は打たれる」のはこのためである。先に述べたように客観的には上下の身分があるのに、主観的には平等だと考えるために、この「ねじれ」から日本独特の強固で陰湿なねたみ意識が生まれる。

とくにここ20年ぐらいの社会的な格差の拡大によって、ますますこのねたみ意識が肥大化している。「上級国民」という言説がこれほど巷に氾濫したのは、日頃から「身分制」の上下関係に敏感になっていることに加えて、ねたみ意識がマグマにように「世間」の奥底に滞留してきたからである。

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なぜ、被告人の「謝罪と反省」が必要なのか?

被告人の無罪主張は、ネットやメディアで徹底的に叩かれた。もちろん、これが被告人のたんなる「思い込み」なのか、または「ウソをついている」のか、あるいは実際に車の不具合があったのかは分からない。これは裁判によって確定されるべき事柄である。

しかしいずれにせよ「法のルール」からいえば、裁判で無罪を主張することは被告人の当然の権利である。法律上の「無罪推定」の原則は、取り調べでも裁判でも貫徹されなければならないから、被疑者・被告人は有罪と宣告されるまでは無罪とみなされる。

ところが日本では犯罪をおかした場合、ただちに、「世間のルール」である「謝罪と反省」が求められる。これが「法のルール」である「無罪推定」より優先されるのだ。被告人は初公判で被害者に謝罪しているが、無罪を主張したため「反省していない」として、これが真摯な謝罪とはみなされなかった。