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経済学は、なぜ「人間の幸福」に役立たなくなってしまったのか?

「自由」vs「正義」の経済思想史
経済学は、なぜ人間の生から乖離し、人間の幸福にはまったく役立たなくなってしまったのか?
経済学・経済思想の堕落の歴史をたどると同時にその再生の可能性を探る、中山智香子さんによる現代新書の最新刊『経済学の堕落を撃つ 「自由」vs「正義」の経済思想史』から、「はじめに」を特別公開します!
 

「食べること」=「生きること」から始める

21世紀が始まって、すでに20年が経過した。変化のスピードは加速し、技術の進歩は著しい。しかし人がひとりひとり、生きていくこと、食べていくことは、どんな時代にも変わることなく重要である。人間は身体を備えた生き物で、長さはさまざまとはいえ、そのいのちには限りがある。

経済とは、人間が限りあるいのちをまっとうできるように、生きていくこと、食べていくことを支える活動であり、仕組みである。

かつて19世紀のなかば頃、かのカール・マルクスにも影響を与えた哲学者のフォイエルバッハは、「人間はかれが食べるところのものである」と述べた。たしかに人間は生き物として何かを食べ、そのことでみずからを形成する。そしてその過程で、さまざまに他の人びととも関わる。

「食べて生きていくこと」は一見、もっとも個人的なことがらのように思われるが、実はきわめて「社会」的なことがらなのである。逆に言えば社会性とは、論理や科学だけでとらえきれるようなものではなく、ましてや「〜イズム」のイデオロギーなどではなく、「食べること」と同等の、もっと根本的で日常的なものなのだ。

いわゆる「経済学」生誕の時代、すなわちアダム・スミスの『国富論』(1776年)が刊行された一八世紀後半は、技術の進展にともなって食料事情が大きく改善され、人間の寿命が延びて大幅に人口が増えた時代であった。ここを起点として以後、経済学は19世紀の産業発展、国境を超えた市場の拡大と経済成長とにともなって、富を増やし、ゆたかさを実現する仕組みを考えるための学問として発展した。

それは政治的な自由主義の興隆に支えられ、自由貿易、競争的な市場を範とする自由主義経済学であった。

しかししばらくすると、その弊害もあらわれてきた。ゆたかさを求めるはずが、むしろ貧困に陥る人びと、過重な労働に疲弊する人びとが少なからず出てきたのだ。この事態を真剣に受け止め、これまでよしとされていたものとは別の経済運営の手法や体制を考える論者があらわれた。そして以後、経済学と経済思想は、政治思想と重ね合わされたり切り離されたりしながら考察されてゆくことになった。

中には、政治体制そのものを根底から変革しなければならないと考える者もいた。そのもっとも顕著な例は、ドイツ出身でイギリスにおいて考察を深めたカール・マルクスであり、またマルクス主義とともに語られる社会主義、共産主義の立場の論者たちであった。社会主義やマルクス主義の系譜は21世紀の現代世界にもさまざまなかたちで引き継がれ、今なお資本主義や自由主義を批判する際の重要な理論的バックボーンを成している。またマルクス自身に関する研究も、今もなお、さまざまなかたちで続けられている。

20世紀にはソビエト社会主義共和国連邦が成立し、また同じ世紀のなかばには中国で独自のマルクス主義国家体制が成立した。そのため、社会主義、共産主義を考える際には両国の現実を視野に入れざるをえなくなった。しかし、ソ連崩壊後のロシアや現在の中国の体制をどう位置づけるのかについては、今なお定まった見方はない。

たんに世界中がグローバルな資本主義という一つの体制に統合されたと見るには両国は、国としての運営の仕方があまりにも違いすぎるからである。錯綜する現代の政治・経済問題の解決にはどのような政治体制、あるいは経済体制がよいのか、世界中で依然として暗中模索が続いている。しかし少なくとも、経済との関わりにおいて政治を考えることは、必ずしも特定の体制や政党政治に賛同することでないことは最低限、確認しておくべきだろう。