平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係

日本と渤海、190年の長い付き合い
堀井 佳代子 プロフィール

本当の目的はこのような貿易にあるのだが、渤海は年期違反に際して、

(1)日本を慕う気持ちが強すぎて、派遣間隔が空いてしまうことに耐えられない
(2)かつては無制限の使者派遣が認められていた

という2点を強く主張してやってくる。特に(1)は日本を大国であると持ち上げ、自分の要求を通すためにその立場をうまく利用している。

日本側としても、天皇としての体面もあり、自分を慕ってやってくると言っている渤海をあまり無下にもできない。「大国のトップである天皇は、渤海に憐れみを示すべき」という考えに基づいて、渤海の無理な主張を受け入れることがたびたびあった。

 

渤海はへりくだって、相手を大国と敬う姿勢を見せながらも、自分に必要な利益をとる。唐とも時に戦い、時に同盟を結ぶという、厳しい国際環境を生き抜いてきた、したたかで交渉ごとに長けた渤海の姿がそこにはある。

しかし日本もいつまでも渤海にやられっぱなしというわけではない。憐れみ深い天皇というトップの立場は守りつつも、年期違反に厳しく対処するための方策や論理を生み出していき、渤海に対抗していく。

ここで、厳しい対応を取れない天皇に代わって、それまで外交の表舞台には出てこなかった太政官が外交文書を出すようになるのも、そのひとつである。太政官はお役所としての立場から、渤海側に向けて法令に基づいて淡々と違反を指摘し、厳しい言葉で釘を刺す。天皇の言えないことを言ってくれる。

日本側は、君主である天皇の立場と、官僚である太政官の立場とをうまく使い分けて交渉をおこなっている。これによって、場合によっては天皇に報告をしていないことにしておいて、渤海の土俵に乗らずに、官司の判断として粛々と対応することも可能になった。このように、一筋縄ではいかない渤海に対応することで、新たな外交文書や外交方式が生み出されていく。

平安時代、日本が安定して、最も頻繁に外交交渉をおこなった国が渤海であった。渤海は中国文化を伝えるというだけではなく、さまざまな外交的な駆け引きを通して、結果として日本の他国への対応力、いうなれば外交感覚を鍛えてくれた。

渤海の首都・上京龍泉府から出土した「上京」の文字がある瓦(中国国家博物館所蔵 photo by Wikimedia Commons)

新しい時代の外交

10世紀には唐・新羅・渤海の滅亡、新興勢力の勃興が起こり、東アジアは動乱の時期を迎える。そのようななかで、日本は新興勢力と対峙する必要に迫られたが、その際には渤海との交渉の経験が役立っていたと考えられる。これも渤海が日本に残してくれた大きな影響と言えるだろう。

日本と渤海の関係は、表面的には日本が上位・渤海が下位であり、渤海は朝貢国の立場を甘んじて受けていた。しかしその実態を見ると、日本は渤海の文化に憧れ、また渤海は下位であることをうまく利用して自分の利益につなげている。日本は上位の立場でありながら、そのような渤海の対応に苦労している。

日本と渤海との交渉は、上下関係だけではくくることのできない多様な関係が古代の国家間にも存在していたこと、表面的な理解では二国間の関係は計れないことを私たちに教えてくれる。

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