平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係

日本と渤海、190年の長い付き合い
堀井 佳代子 プロフィール

嵯峨天皇と渤海王

嵯峨天皇は渤海使のこのような役割をよく理解していたのだろう。積極的に正月の儀式に彼らを参加させた。また嵯峨天皇が渤海王に向けて出した外交文書のなかでは、渤海王は優れた人物で「信」や「礼」といった儒教的徳目を備えた人物であるとしている。また渤海王に対して「君子」と呼びかけてもいる。

惟るに王、資質広茂にして、性度弘深たり。(『日本後紀』弘仁2年正月22日条)
王、信義、性を成し、禮儀、身に立つ。(『類聚国史』弘仁11年正月21日条)

また他にも、「俗、礼楽を伝ふ(社会全体に文化が伝わっている)」と、渤海国自体が文化的に優れた国であることにも触れている。嵯峨天皇以前の外交文書では、渤海王について、「日本に来朝してきた」という行為を讃えることはあっても、個人の資質にまで言及されることはなかった。渤海はあくまでも朝貢国であった。

 

しかし平安時代前期の嵯峨天皇の時代になって、渤海は新たに文化的な意義を与えられた。渤海が中国文化を身につけていたことがその前提であるが、日本側が渤海の文化的な面に着目してそれを受け入れている。菅原道真が渤海使裴頲に憧れる、そのような状況の出発点は、この嵯峨天皇の時代に求められる。

しかし、このような嵯峨天皇の政策は長くは続かない。天長元年(824)には、渤海に対して使者派遣の間隔を12年に1度にするという制限が設けられた。日本海沿岸諸国にこの制限を通達した文書には、「小の大に事へること、上の下を待すること、年期・礼数、限り無かるべからず」と、大国が小国との交渉に制限をつけるのは当然のことだと、かなり高圧的に述べている。

東寺・嵯峨天皇御影(模本) (東京国立博物館所蔵)

表向きこのように述べているが、実際の理由のひとつは財政面だろう

渤海使の都での滞在費は朝廷が負担し、到着地での滞在費は到着国の地方財源から支出される。特に到着国では、渤海使百数十人分の数ヵ月にわたる食費をすべて負担しなくてはならない。また渤海使が日本海を渡って到着すると、その時点で彼らが乗ってきた船は使い物にならないことが多かった。彼らが帰国するための船は日本側がその都度、建造しなければならなかった。これも到着国にとっては大きな負担であっただろう。

他にも朝廷が外交そのものにそれほど積極的ではなくなった、ということも背景として考えられるが、すでに朝廷にとって渤海使は多額の費用を負担してまで頻繁に迎えるべき存在ではなくなっていた

したたかな渤海

ところが渤海側は、この12年に1回という約束を平気で破って、数年おきに使者を派遣してくる。その目的は朝廷との国交にあるのではなく、到着地の日本海沿岸でおこなう密貿易の利益にあったのであろう。

天長5年(828)には渤海使から品物を買うことを禁じる命令が出されている。都の貴族は渤海使の到着地に使者を派遣し、品物を購入していたが、そのことも厳しく禁じられている。しかし禁じられて以降も、役人の目を盗んでこの密貿易は継続していただろう。ここでの主要商品は天皇への贈り物にもなっていた、動物の毛皮であっただろう。醍醐天皇皇子の重明親王が、渤海使の前に黒貂の毛皮を8枚もつけて現れ、渤海使たちを驚かせたという話が伝わっているが、これなども元は渤海との密貿易で入手したものだろう。

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