平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係

日本と渤海、190年の長い付き合い
堀井 佳代子 プロフィール

儀式のなかの渤海使

作法が中国風に改められる以前の古いあり方を記載している『内裏儀式』であるが、このなかに、拍手をおこなわない、再拝・謝座謝酒をおこなうという『内裏式』の新しい作法を先取りしている部分が一部存在している。これをおこなっているのが、日本にやってきた渤海使である

 

渤海使は天皇に謁見して、渤海王からの外交文書やメッセージを伝達する儀式、いわゆる「拝朝儀」をおこなうが、このような外交儀礼のみならず、天皇と官人のおこなう年中行事である、一連の正月行事にも参加する。

元日には天皇の前で全官人が拝礼をする朝賀があり、その後の宴会、元日節会(がんじつのせちえ)があった。7日には、これを見ると一年間息災でいられるという白馬を天皇と官人とで見る宴会、白馬節会(あおうまのせちえ)があった。16日には舞台を設置して妓女の舞を鑑賞する宴会、踏歌節会(とうかのせちえ)、さらに17日には天皇の前で、官人が弓を射ってその成績を競い合う射礼がおこなわれた。

白馬節会図 (江戸時代、東京国立博物館所蔵)

このように、正月には多くの重要な行事がおこなわれている。天皇と近臣のプライベートな宴会という性格の強い元日節会を除いて、渤海使はこれらの行事に官人とともに参加していたのである。

そのため、『内裏儀式』の儀式次第のなかに渤海使が登場する。通常の儀式次第を一通り記載した後で、渤海使がこれらの行事に参加した場合の変更点・渤海使の儀式内の動きについて記載している。そして、その儀式のなかで渤海使は、当時の日本の官人とは異なる中国風の作法を用いていた。

日本の朝廷は、自分たちがおこなっている拍手や四拝といった作法を、来朝した渤海使に強要して、同じようにさせてはいない。自分たちとは異なる作法を彼らにおこなわせていた。渤海でも770年頃から、唐風化政策がおこなわれ、直接的な唐文化の導入が進められた。渤海使は自身が身につけていた作法を、日本の宮中においてもおこない、朝廷もそれを咎めることなく、許容していたのだろう。その状況が『内裏儀式』には描かれている。

つまり『内裏式』に書かれている中国風の作法は、それ以前の段階では宮中において渤海使がおこなっていたものなのである。作法自体は中国風なのであるが、朝廷は渤海使の作法を取り入れ、これを全官人におこなわせている。

その淵源は唐の動作であり、唐風化をめざした施策であるが、それを直接に、より実戦的なかたちで日本に伝えたのは渤海使だった。日本の作法しか知らない官人たちにとって、渤海使はまさに中国文化を体現した生きるお手本としての役割を持っていたのではないだろうか。中国文化の素養を持った文人官僚との漢詩贈答よりもより広く、官人全体に対して、その作法を通して渤海使は影響を与えていたのではないだろうか。

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