平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係

日本と渤海、190年の長い付き合い
堀井 佳代子 プロフィール

詞の珠と涙の珠

渤海と日本の関係を示す際によく取り上げられるのが、漢詩の贈答である。渤海使節として文才のある人物が派遣され、渤海使と日本の文人官僚とが漢詩を読み交わしている。渤海大使・裴頲(はいてい)菅原道真との間での漢詩は、道真の作品集『菅家文草』に残っている。道真は、裴頲の文才をとても高く評価しており、彼を崇拝して憧れているような様子すら見て取れる。別れの餞の詩のなかで道真は、

去留相贈皆名貨(去るも留まるも相贈るは皆、名のある貨ならんに)
君是詞珠我涙珠(君は是れ詞の珠なれども、我は涙の珠なるものを)

と、「裴頲が素晴らしい詩を餞別として送ってくれるのに対して、自分は涙しか送ることができない」と述べている。「珠」という字を掛けた、多分に修飾的な言い方ではあるが、道真の心が伝わってくる。このように、文人官僚たちは渤海使から文学的な刺激を受けていた。

 

当初は日本側は渤海を、自らよりも下位の朝貢国としてみなしていた。しかし、道真の活躍した9世紀末には、日本側は渤海が朝貢してくるという点を強調するのではなく、自分たちよりも中国の文化に精通している点を高く評価している。文人官僚たちは競い合うように渤海使と漢詩を作り、渤海使を尊敬のまなざしで見るようになっているのである。

このような朝貢国から文化国へ、という渤海に対する評価の変化は、平安時代前期に起こったものと考えられる。この頃に作成された「儀式書」の記載から、それを見ていこう。

菅公像 秋月等観筆(東京国立博物館所蔵)

平安時代前期の儀式の唐風化

弘仁12年(821)、儀式書『内裏式』嵯峨天皇の命によって編纂された。

嵯峨天皇は唐風化政策を推し進めた人物であり、宮中の行事においても漢詩の贈答をおこなわせる、漢詩集を作成する、門号・殿舎号を中国風に改めるといった施策をおこなっている。『内裏式』編纂も、この唐風化政策の一環であった。

儀式書には、宮中でおこなわれる行事(宴会や神祭り・官人の任官式など)の式次第が時間に沿って書かれ、各担当官司の会場設営をはじめとする準備・儀式内での参加者の作法が詳細に書かれている。中国で作成されていた儀式次第「儀注」をもとにして、日本で儀式を実施するために作られたものである。『内裏式』以前の儀式内容は、儀式書『内裏儀式』に描かれているが、両者を比較すると、『内裏式』では、それまで十分に実施できていなかった、唐風の動作・作法が新たに取り入れられていることが判明する。

たとえば、『内裏儀式』では、宴会のなかで、跪礼(きれい 地面に跪く)・拍手(物を受け取るときや感謝を示す場合に手を打つ)・四拝(四度お辞儀をする)を、そこに参加する官人たちがおこなうことが示されている。

跪礼や拍手は、『魏志倭人伝』にも見られ、邪馬台国でおこなわれていた古い動作である。平安時代の宮中での宴会においても、このような古い動作がおこなわれていたことには驚かされる。

これを『内裏式』では一新する。跪いておこなっていたものは立ったままおこなう立礼に改められ、拍手も再拝(二度お辞儀をする)や舞踏(片腕を横に伸ばしてそこにもう片一方の腕を合わせ、衣服の袖をすり合わせる)に代えられておこなわれなくなる。四拝も数を減らして再拝とされた。そして古い作法を改めるとともに、謝座(着席する前におこなう再拝)・謝酒(着席の前に盞を授かって飲む動作をする)を新たに付け加えている。これらは、中国でおこなわれていた動作である。

飛鳥時代から、朝廷は遣唐使を派遣し、中国の文物を導入してきた。この平安時代前期において、儀式の作法に到るまで中国の文化が浸透したと言える。この嵯峨天皇の一連の唐風化政策は、7世紀以来の中国文化導入の最終局面に当たるという評価もなされている。それはその通りなのだが、それとは別に興味深い事実が指摘できる

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