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平安時代の日本と、隣国「渤海」の不思議な外交関係

日本と渤海、190年の長い付き合い
平安時代の日本が、最も頻繁に外交交渉をおこなった国は「渤海」だった!
なぜ渤海は日本との外交関係を望み、また日本は渤海にどのような役割を期待したのでしょうか? 「渤海使」が日本にもたらしたものとは?
平安時代の日本と渤海の、簡単な上下関係では説明できない不思議な関係から、古代の国際関係の謎に迫ります!
 

日本と渤海の長いつきあい

渤海(ぼっかい)という国をご存じだろうか。現在は高校の教科書にも取り上げられているが、かつては謎の国とされていた。奈良・平安時代に日本が外交関係を取り結んだ国のひとつが渤海である。渤海は現在の中国沿海州・ロシア・北朝鮮にまたがった地域にあたり、高句麗の遺民たちによって建てられた国とされる。

8世紀ころの勢力図
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698年に大祚栄(だいそえい)によって「振」が建国される。これが渤海の前身である。祚栄は突厥契丹と与しつつ、713年には唐から渤海郡王に冊封された。東北地方の主導権をめぐって732年には唐と戦闘をおこなっている。

渤海はこのような厳しい国際環境のなかで生き残ってきた、気骨のある国である。その後、渤海は唐と良好な関係を築き、唐文化の移入に努め、遣唐使を派遣するとともに留学生を送り、唐の学問を学ばせてもいる。その国内でも唐の官制を模した三官六省の組織を作り上げ、律令体制を導入している。その一方で唐とは異なる独自の年号を使用するなど、唐と一定の距離を置く側面も見られる。

このように見ると、日本と渤海とはともに中国文化を受容する中国の周辺国であり、中国との距離感も含めて共通する点も多いと言える。

地理的に農耕は難しかったようだ。渤海王から天皇に対しては、トラ・ヒグマ・ヒョウの毛皮や人参(朝鮮人参)・蜜が送られている。また、日本に来た渤海使には、特別に毎日鹿二頭が準備されていた。彼らは肉食を好んだのだろう。渤海が狩猟・採集を基盤とした社会であったことがうかがえる。

渤海王大武芸(だいぶげい)が神亀4年(727)に日本に使者を派遣してきたことから、日本と渤海との交渉が始まる。渤海にとってこの交渉は、日本と結びつくことによって、対立していた黒水靺鞨(こくすいまっかつ)や新羅を牽制することを狙ったものであった。

一方、日本の朝廷は、渤海が「自身は高句麗の後身である」と名乗ったことから、かつて滅亡前後に辞を低くして日本に遣使してきた高句麗との関係を思い起こした。その結果、渤海を自分より下位の朝貢国とみなした。これが日本と渤海交渉の出発点である。

他にも日本は新羅とも使者を送りあい、唐にも数十年に一度、遣唐使を派遣していた。新羅については、宝亀10年(779)を最後に新羅使が日本に来ることはなくなった。朝廷は新羅も朝貢国として位置づけて日本上位の立場を主張したが、新羅はこれを容認せず、関係悪化を招いたのがその一因である。

遣唐使も寛平6年(894)に菅原道真によって派遣停止の建議がなされる。ただ、そもそもこのときは約60年ぶりの遣唐使派遣であり、宇多天皇が主導したきわめてイレギュラーな計画であった。実際の遣唐使派遣自体は承和5年(838)が最後である。

しかしその間にも、渤海は定期的に日本に使者を派遣してきている。その交渉は延喜19年(919)まで続く。渤海滅亡後の延長7年(929)にも、渤海を滅ぼして建国された東丹国の使者として、かつての渤海大使であった裴璆(はいきゅう)が来朝している。つまり、平安時代を通じて安定的に日本が外交をおこなっていた国は渤海だけであり、日本は意外に大きな影響を渤海から受けているのである