写真/森清

いい恋愛小説を一作は書きたい―『完全犯罪の恋』創作秘話

芥川賞作家・田中慎弥の野望と妄想
「私の顔、見覚えありませんか」
突然現れたのは、初めて恋仲になった女性の娘だった。


――新刊『完全犯罪の恋』で、芥川賞作家・田中慎弥が初めて恋愛小説に挑んだ理由と執筆秘話を明かす。
 

一作はいい恋愛小説を書いておきたい

有名な文学賞がほしい、売れる小説が書きたい、モテたい、毎日ただで飲み食いしたい、さらには高級車を乗り回したい、豪邸に住みたい、果ては、惜しまれながら大往生し、自らの名が冠された文学賞に後輩作家たちが涎を垂らす様をあの世から見下ろして高笑いしたい、というように作家にはいくつかの野望があるものだが、その中に、恋愛小説のいいやつを一作は書いておきたい、というのがある。

一作といわずいくつでも書けばいいじゃないか、というのは恋愛ものをたくさん書いている作家にしか言えないことで、それまで色気と無縁の作風だった書き手にしてみれば、一作だけでも、となるのであり、そんな具合に力が入っているものだから、そのたった一作にさえてこずってしまうことになる。

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私も今回、てこずった。柄にもなく恋愛小説に手を出してしまったのだ。なんの動機もないまま、なんとなく書こうと思ったわけではない。これは恋愛小説なのだ、と一人で勝手に力んでいるからには、それなりの取っかかりがあった。

まず、四十代も後半に入り、昔のことを思い出す時間が増えた、正確に言えばそのくらいしかやることがなくなってきた、という我ながら痛々しい状態にあること。回想。ノスタルジー。懐かしいあの頃に戻ることが出来たなら、必ずあの人に思いを告げよう……これはもう人間として男として、下手をすると作家としてもおしまいである。

せっかくおしまいなのであれば、この情ないノスタルジーを、過去と現在の自分を対比させる形で小説に出来ないものか、と考えた。二十世紀の終りを地方都市で過す高校生と、二十一世紀の東京に生きる作家。その前に現れる二人の女性。全体の構図を、一応このように描いてみた。