【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった

科学の成果が、歴史を裏付けた…!
藤田 達生 プロフィール

とりわけ、信長が四国外交の方針を変更し、それまで光秀が良好な関係を築いてきた長宗我部元親の討伐を決めたことは、光秀の体面を大きく傷つけ、恨みにつながったと容易に推測できる。大村が書いている「将軍足利義昭の推戴」も、一見唐突だが、意外に違和感がなかったことなのかもしれない。

情報の重要性を熟知していた秀吉が、こうした状況のなかで、光秀や毛利氏の周辺などにアンテナを張り、光秀の叛意をあらかじめ察知していた可能性は高い。

敵方・毛利を震えさせた秀吉の言葉

そのことを強く示唆する史料として、毛利氏家臣の玉木吉保が記した「身自鏡」(みのかがみ)の一節を紹介しよう。本書は元和3(1617)年に成立したもので、毛利元就・輝元・秀就の三代に仕えた吉保の自叙伝として広く知られている。

本能寺の変の報を6月3日夜に知った秀吉は、翌4日に毛利氏と講和を結んだ。吉保は、このときの秀吉と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)との講和交渉のシーンを、次のように活写している(現代語訳は筆者)。

秀吉(右)との講和交渉に臨んだ安国寺恵瓊(月岡芳年『教導立志基三十三:羽柴秀吉』)
 

羽柴秀吉が安国寺恵瓊を密かに(石井山の陣所に)呼んで、中国(毛利氏の領国)を平定するための私の謀(はかりごと)を見せようと仰り、(毛利氏家臣で)味方になった武将たちの連判状(名前と花押を据えた文書)を(恵瓊に)投げ出された。そこから洩れている(毛利家の主な)武将は、五名にすぎなかった。恵瓊は肝を潰し、膝を震わせた。秀吉は、このような計略はかつて日本にはなかったと思っていたところ、毛利輝元殿の御謀(おはかりごと)が深かったため、信長がお果てになってしまったと仰り、したがって今は毛利・吉川・小早川の御三家と和睦して上方に戻り、明智光秀を討ち果たして信長の恩に報いたいので御同心いただきたいと、起請文(神に対する宣誓文)を作成のうえで仰った。

秀吉は毛利氏との大決戦の前に、毛利方の多数の重臣をあらかじめ寝返らせるという「かつて日本にはなかった」空前の計略を実現していたことを明かし、恵瓊の膝を震わせるほどのショックを与えた、と吉保は記しているのである。