秀吉は自身の最大の課題を、「奇跡の中国大返し」に成功したと喧伝することに絞っていたと考えられる。実際の戦闘は、高山氏や中川氏ら、地元摂津の大名衆に委ねればよかったのである。現に、山崎の戦いで最前線に布陣したのは秀吉軍本隊ではなく、中川清秀、高山右近、木村重茲、池田恒興、加藤光泰ら、いずれも摂津および畿内の諸将であった。
播田氏は、中国大返しに関する考察の結果として、次のように述べる。
中国大返しにともなうリスクを小さくするためには、あらかじめこのような行軍が必要になることを想定し、それを実行するために時間をかけて、さまざまな準備をしておくしかないことがわかります。言い換えるならば、そうした準備が整い、リスクより成功の期待値のほうが十分に大きくなったと判断したからこそ、秀吉は中国大返しに踏み切ったのでしょう。
大返しのリスクを軽減するには、事前にその必要性を想定し、さまざまな準備をしておくしかなかったというのである。では、秀吉にはなぜそれが可能だったのだろうか。
拙論(『本能寺の変』講談社学術文庫)によると、織田家臣団のなかで生き残りを懸けて光秀との派閥抗争の渦中にあった秀吉が、本能寺の変を事前に想定していた可能性は十分にある。実際に、光秀の謀反の真因に関連して、変からわずか4ヵ月後の天正10年10月に著された『惟任退治記』(前出:大村由己筆)には、次のような一節がみえる。現代語訳して掲げよう。
光秀は、将軍足利義昭を推戴し、2万余騎の軍勢を編成して、備中に向かわずに、密かにクーデターを企てた。これはまったく発作的な恨みからではなく、年来の逆心からであることを、(人々は)知り察していた
大村らの秀吉側の人間にとっては、光秀が信長に対して「年来の逆心」を抱いていることは、常識に近かったと思われるのだ。