【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった

科学の成果が、歴史を裏付けた…!
藤田 達生 プロフィール

しかも、当時の山陽道は未整備で険しい山道が多く、とくに最大の難所とされる船坂峠(岡山県と兵庫県の県境)は高低差が大きく、道も狭くて滑りやすく、梅雨時でもあることから行軍にはかなりの困難をともなったとみられる。

播田氏は、現在の自衛隊の空挺団には、30kgの装備を携行して山岳地帯の100kmを2泊3日で踏破するという行軍訓練があることを紹介し、中国大返しに従った兵士たちの消耗度は、現代の選りすぐりの自衛隊員に課せられるのと同様の訓練を、8日間にわたって強行した場合にひとしいと指摘する。そして、はたして山崎の戦いで兵士たちはまともに戦えたのか、「大きな疑問」であるとしている。

これに関しては、宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』にこのように記しているのが参考になる。

この軍勢(秀吉軍)は幾多の旅と道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、(予想通りには)到着しなかった。

山崎の戦いでは、秀吉軍の兵士は、播田氏の疑問通りだった可能性が高い。

豊臣秀吉(高台寺蔵)
 

疲れ切った兵士でもよかった

ならば、なぜ結果的に秀吉は勝利を収めたのであろうか。

秀吉は、みずからの体験によって、情報と宣伝が戦いの勝敗を決定することを学んでいた。極端にいうならば秀吉は、戦場では使いものにならなくても、可能なかぎり早く兵を返せばよいと判断していたのではあるまいか。

実際に、「秀吉、無事帰還す!」との情報が、分散し、情勢を日和見していた旧織田家臣団を味方につけ、ひとつにまとめることに直結した。とくに、戦場となった山崎に近い地元勢力である摂津高槻城主の高山右近や、摂津茨木城主の中川清秀の参戦は、形勢を決定的なものにした。