そのほか、手足の親指を切られる者、生きていけない離れ小島へ流される者、多くをみせしめとしたが、家康はおたあを改宗させることはできなかった。
彼女も甘んじて遠島の刑を受け、伊豆大島―新島―神津島と流されていく。
途中、新島で変わり果てたクララとルシアの2人に会ったものの、おたあはついに食物の乏しい神津島へ。幾度かの、家康からの使者も拒絶。その家康が死んでからは、まさに忘れられた存在となった。
慶安4年(1651)、おたあはこの地に没した。40なかばであったろうか。
現在、大島の海岸に「おたい浜」と呼ばれるところがあり、その近くには「おたいね明神」という祠があるが、これは「おたあ=お滝」が転訛したものだといわれている。
なお、流人墓地には“朝鮮風”と称される墓塔が1つ建立されているが、誰いうとなくこれこそが、おたあの墓だというようになった。
考えてみれば、残酷な話ではあるまいか。