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【小説】日付を変えろ…「原子炉の配管の歪み」隠ぺいを迫る上司の驚きの一言

伊与原新『八月の銀の雪』の1編を公開【第3回】

地球惑星科学を専攻し、東京大学大学院博士課程を修了した異色の経歴を持つ小説家・伊与原新さん。最新作『八月の銀の雪』は、天文、気象、生物などがテーマに、科学のエッセンスが登場人物の傷ついた心を優しく包み込む物語です。本書収録の気象をテーマにした1編「十万年の西風」を5日連続掲載で公開します。

●前回はこちら → 【小説】原発の下請け業者「会社をやめた男」がいまだ抱える心の傷

【前回のあらすじ】

辰朗は自身が原発の下請け会社で働いていたこと、福島へ向かう途中で凧を見かけ、長浜海岸に立ち寄ったことを滝口に明かす。

原発の町で生まれ育った辰朗は、いつしか自分も大人になればそこで働くのだろうと思うようになっていた。二十歳で高専を卒業し、原発の保守・点検を専門におこなう会社に就職。

入社すると、原子炉と発電プラントについて叩き込まれたが、あまりに巨大かつ複雑な原発は、細部をいくら知っても、全貌をつかんだ気がしなかった。しかし、徐々に原発の安全を守っている自負が生まれ、五、六年後、新人に指導する立場になる頃には、自分も技術者の端くれになったような気がしていた。

十万年の西風(3)

「原発関係者がみんな――」滝口が言った。

「あなたのような気持ちであればいいんでしょうが」

「私のような……どういうことですか」

「原発をまた動かし始める前に、福島を訪ねてみようという気持ちですよ」

「いや、私にそんな立派な思いなんかありませんよ」嘘ではない言葉を探して継ぐ。

「ただ、不惑をとうに過ぎて、ぐずぐず迷っているだけです。迷った挙句、こんなところへ寄り道をしたりして」

海のほうを向いたまま言ったが、滝口に横顔を見つめられているような気がした。気づまりになって、ぬるくなったコーヒーをひと息に飲み干す。

視線を海に戻した滝口が、静かに口を開いた。

「迷うのはいつも、後世の人間だ。ご存じかもしれないが、十九世紀の末に物理学者ベクレルが放射線を発見したのは、偶然です。

彼は、ウラン鉱石から精製した化合物を使って蛍光の実験をしている最中に、それが写真乾板を感光させることに気がついたとされている。ベクレルにしても、ポロニウムやラジウムを発見したキュリー夫人にしても、研究に熱中した動機はただの好奇心だったはずです。

遥か上空の風を知りたいと僕らが思うのと、まったく同じ好奇心。自然の摂理を明らかにしたいというね。

彼らは、それが原子力に応用できるということなど、考えもしなかったと思います。ついでに言うと、放射能の怖さについても理解していなかった。無防備に実験を続け、二人とも被曝が原因の病で亡くなったと言われていますから。キュリー夫人が使っていたノートは放射能汚染がひどく、今も危険で触れないそうですよ」

「――そうなんですか」

「人間に好奇心が備わっている以上、放射能の発見は、必然だった。そこにあるのは、自然の成り立ちを垣間見た喜びや、驚きや、畏怖だけで、迷いなどない。そして、いったん発見されてしまえば、それが何に利用できるか考え始めるのも、また人間というものなんでしょう。だからこそ、文明というものがある。

問題は、我々人間が、非常な危険をともなう使い方や、邪悪な使い道さえ思いついてしまうということです。思いついた以上、それを実現したいという好奇心を止めるのは困難だ。

そして、一度その威力を知ってしまうと、簡単には捨てられない。迷いながらも、その度に言い訳を見つけ出し、決断を先送りにして、使い続ける。場合によっては、破滅的な被害が出たあとでさえ。その最も愚かな例が核兵器であり、最も無責任な例が、原子力発電ですよ」