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【小説】原発の下請け業者「会社をやめた男」がいまだ抱える心の傷

伊与原新『八月の銀の雪』の1編を公開【第2回】

地球惑星科学を専攻し、東京大学大学院博士課程を修了した異色の経歴を持つ小説家・伊与原新さん。最新作『八月の銀の雪』は、天文、気象、生物などがテーマに、科学のエッセンスが登場人物の傷ついた心を優しく包み込む物語です。本書収録の気象をテーマにした1編「十万年の西風」を5日連続掲載で公開します。

●前回はこちら → 【小説】この男は何者か…?「大きな凧」を揚げる老人が語った、意外な経歴

【前回のあらすじ】

ひとり旅の途中の海岸で、辰朗は凧を揚げる初老の老人に出会う。

遠目から見てもかなり大きな凧を見事に操る姿に見惚れる辰朗に向かって、ふいな風に飛ばされた老人の帽子が飛んできた。波にさらわれそうなところで、帽子をつかんだ辰朗。

立派な凧ですね、と大人の背丈ほどありそうな凧を見た辰朗は老人に話しかけ、凧をめぐる老人との会話から、少年時代の父親との思い出にいざなわれる。老人は滝口と名乗った。

今日は風がいいという滝口から、凧あげを手伝ってくれと頼まれる辰朗。滝口はアタッシュケースのなかから気象観測器を取り出した。聞けば気象学の元研究者だったいう。

準備を終えた凧から手を離すと、ふわりと上がった。

十万年の西風(2)

二十メートル近く揚がったところで、滝口が糸巻き器を辰朗に預けてきた。ハンドルにロックがかかっているので、それ以上糸は出ていかない。その分、さらに上昇しようとする凧に、糸巻き器を握る手が引っ張られる。

滝口は、凧へとのびる糸にカラビナを引っ掛けた。それを持って顔の高さに糸を引き下ろしながら、前に進む。凧から十メートルほどの位置まで来ると、そこに特殊な金具を取り付けて、円筒形の観測器を吊るした。それだけ離してぶら下げるのは、凧本体が生む気流の乱れを避けるためだそうだ。

 

カラビナを外すと、糸とともに観測器が滝口の頭上に跳ね上がった。揺れる観測器の頭で、風車がくるくる回っている。

辰朗から糸巻き器を受け取って、滝口が言う。

「助かりました。近くに人がいるときは、こうやって手を貸してもらうんですよ。誰もいなければ、糸巻き器をどこかに固定してやったりもするんですが」

「お安い御用でしたよ」もうお役ご免らしいが、すぐにこの場を離れる気にはならない。凧が上がっていくところを見届けたかった。

滝口はゆっくりハンドルを回し、糸を出していく。ところどころに塗られた赤色は、十メートルごとのマークだそうだ。次にそれが糸巻き器から現れたところで、彼はハンドルをロックした。ポケットから小さな双眼鏡のようなものを取り出し、凧に向ける。

「距離計ですか」辰朗は言った。レーザー距離計は、辰朗も仕事で使うことがある。

「仰角も測れます」滝口はレンズをのぞきながら答えた。

「距離と仰角から、高度を割り出すんですよ」

「ああ、なるほど」

「凧が遠くなって距離計が効かなくなったら、揚げ糸の長さにたわみを考慮して距離を見積もります」

滝口は出た値をつぶやくと、今度は小さなノートを取り出して、時刻とともに書きつけた。それをすべて片手でやるのだから、慣れているとはいえ器用なことだ。

彼は再びハンドルを動かした。凧がするすると上昇する。糸が二十メートル出たら、距離計で測る。またハンドルを回して二十メートル繰り出し、距離計。それを黙って繰り返す。糸は仰角を増しながらのび、凧は沖に向かって離れていく。