【小説】この男は何者か…?「大きな凧」を揚げる老人が語った、意外な経歴

伊与原新『八月の銀の雪』の1編を公開【第1回】

地球惑星科学を専攻し、東京大学大学院博士課程を修了した異色の経歴を持つ小説家・伊与原新さん。その経験や視点を活かし、小説のストーリーに自然科学のエッセンスを掛け合わせる作風が大きな注目を集めています。

最新作『八月の銀の雪』は、天文、気象、生物などがテーマに、科学のエッセンスが登場人物の傷ついた心を優しく包み込む物語です。本書収録の気象をテーマにした1編「十万年の西風」を5日連続掲載で公開します。

十万年の西風(1)

それはやはり、凧だった。

さっき車の中から海辺のほうに見えた、青空に浮かぶ白い物体だ。やや縦に長い六角形で、かなり大きいことが遠目にもわかる。

砂浜で競技用か何かの派手なカイトを飛ばしている人なら見たことがあるが、昔ながらの形の凧を目にするのは珍しい気がした。

辰朗は、車を停めた海岸の駐車場を離れ、凧が揚がっている浜のほうへ歩き出した。

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興味がわいたというほどのことではない。急ぐ旅でもないし、寄り道のついでだ。目的地を目の前にしながらそこへすんなり踏み込めずにいる自分への言い訳にも、ちょうどよかった。

コンクリートのなだらかなスロープをくだり、突堤の付け根を行き過ぎる。先端のほうで釣り人が一人竿を振っていた。

澄んだ海の色は、浅瀬ではまだらに緑がかり、沖へいくにつれ青を濃くしていく。秋晴れの空は遠くなるほど白味を帯びているので、濃紺で引いたような水平線がくっきり見えた。

 

突堤の先の消波ブロックでは白波が砕けているが、海岸に打ち寄せる波は時折り小さく巻くだけで、荒くはない。

階段状の護岸に沿って少し進むと、その先に砂浜が広がっていた。

百メートルほど先で、年配の男性が揚げ糸を引いている。何人かいるだろうと思っていたら、ぽつんと一人だけだ。凧は陸側から吹く風を受けて、海の上にあった。冬の前触れのように冷んやりとした、やや北寄りの西風だ。

緩やかな弧を描く浜は、そのずっと向こうまで続いている。広さの割りにひっそりとした印象を受けるのは、背後が切り立った崖になっているからだ。エメラルドグリーンの海と崖の上の緑が、白い岩肌と砂浜を挟んでいる。そのコントラストが絵のように美しい。