昭和17年10月、南太平洋海戦で究極の決断を迫られた零戦隊飛行隊長・日高盛康さん

君ならどうする? 戦場で究極の決断を迫られた零戦隊長の決断とは?

味方を守るべきか? 敵を倒すべきか?

いまからちょうど78年前の昭和17(1942)年10月26日、日米の機動部隊が激突した「南太平洋海戦」。日本海軍機動部隊が米機動部隊と互角以上にわたり合ったこの海戦で、究極の決断を迫られた若き指揮官がいる。
空母「瑞鳳」戦闘機分隊長・日高盛康大尉(当時25歳)。零戦9機を率いて出撃した日高大尉は、味方攻撃隊を護衛して敵艦隊に向かう途中、味方艦隊を攻撃に向かう敵機編隊と遭遇したのだ。これを見逃せば、味方艦隊は攻撃を受け、約4ヵ月半前のミッドウェー海戦の二の舞になるかもしれない。しかし、味方攻撃隊から離れてしまうと、護衛が手薄になって、攻撃機が敵戦闘機の餌食になりかねない。そこでとった日高大尉の行動、そして、生涯背負い続けた「指揮官の責任」とは――。

 

戦史に刻まれ、戦後も議論された決断の場面

昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊が主力空母4隻を失い、大敗を喫して約2ヵ月半後の8月24日、ソロモン諸島沖でふたたび日米機動部隊が激突(第二次ソロモン海戦)、さらに10月26日には、南太平洋で空母対空母の大規模な戦いが起きた(南太平洋海戦)。

結果的に、日本海軍機動部隊が米機動部隊と互角以上にわたり合った最後の戦いとなった「南太平洋海戦」で、日本側は米空母「ホーネット」、駆逐艦1隻を撃沈、空母「エンタープライズ」に損傷を与え、飛行機74機を失わせたが、空母「翔鶴」と「瑞鳳」が被弾、飛行機92機と搭乗員148名を失った。

この海戦で、空母「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」から発進した第一次攻撃隊(零戦21機、九九式艦上爆撃機21機、九七式艦上攻撃機20機)が敵機動部隊に向け進撃中、ちょうど味方艦隊の攻撃に向かう敵艦上機群と遭遇した。

日高盛康大尉率いる「瑞鳳」零戦隊9機が反転してこれを攻撃、その大部分を撃墜することで味方艦隊の損害を未然に防いだが、護衛戦闘機が手薄になった第一次攻撃隊は、敵機動部隊上空で待ち構えていた米海軍のグラマンF4F戦闘機38機に襲われ苦戦、敵対空砲火の威力もあいまって大きな犠牲を出した。

敵攻撃隊を発見し、反転してこれを攻撃した日高大尉の決断は是か非か――このことは、現場の指揮官が問われた究極の決断の一場面として、戦史に刻まれ、戦後もさまざまに議論されてきた。

「受けた命令は攻撃隊の護衛なのだから、日高大尉の反転は明らかな命令違反」

という辛辣な正論。

「いや、母艦が沈められたら元も子もなくなるのだから、敵攻撃隊を発見しながらみすみす見逃すことはできない」

と、日高大尉を擁護する意見。どちらの考え方にも理はあるだろう。

日高大尉(終戦時少佐)は、零戦隊の指揮官として、終戦のその日まで戦い、いくつかの重要な局面で戦史には必ず名前が出てくる人だが、戦後、自らの戦争体験についてはいっさい口をつぐみ、何人たりとも取材には応じないことで知られていた。私も平成7(1995)年、手紙でインタビューを打診してみたものの、

「申し訳ありませんが、戦争の話はどなたにもしたくありません」

と断られたことがある。

日高盛康さん(撮影/神立尚紀)。零戦隊の指揮官として終戦のその日まで戦い、戦後は航空自衛隊を経て富士重工業でテストパイロットを務めた

そんな状況が変わったのが平成14(2002)年正月のこと。私は、母校・大阪府立八尾高校の旧制中学時代の先輩にあたる零戦隊指揮官・宮野善治郎大尉(戦死後中佐)の生涯を本にしようと、取材、執筆に取り組み始めていた(『零戦隊長 宮野善治郎の生涯』(光人社NF文庫)。そのことを年賀状で報告すると、すぐに日高さんから、

「宮野さんは海軍兵学校の一期先輩で、思い出深い人なので、是非会って話をしましょう」

という、驚くべき申し出をもらったのだ。

日高さんが筆者に会ってくれるきっかけとなった宮野善治郎大尉。零戦の名指揮官として知られる

じつに7年越しで会うことができた84歳の日高さんは、「インタビュー嫌い」の先入観から抱いていた気難しいイメージとは正反対の、ニコニコと笑顔を絶やさない、物腰柔らかな紳士だった。

「やあ、はじめまして。以前、取材を断ったことがずっと気になっていたんですが、その後、いろんな人と会われたようですね。私は、戦争の話はこれまでしてこなかったし、これからもしたくありませんが、尊敬する宮野さんの本を書かれるというので、お役にたてばと、思い出をお話しようと思いましてね」