関連記事:「世界は、『新世界』という新たな身分制社会へとなだれ込んでいる!」
出来事の深い意味を見損なっている
いま私たちが生きている世界の動態を大づかみにしてみたらどうなるか、その記述を試みたのが『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)である。
政治情勢や経済分析あるいは世相の動きから現代(の日本)を捉えるのではなく、日本で生きている者にとってこの世界はどうなっているかを、近代以降の大きな流れのなかで概括的に描き出してみたかったのだ。
私は政治学者でも経済学者でも、また歴史家でもない。もともとは20世紀のフランス文学・思想の研究、とりわけ「世界戦争」の時代の極限状況のなかで書くこと、考えることの困難に直面した作家たちの研究から始め、戦争、死、共同性、宗教、世界史と文明などについて考えてきた者だ。
だが、世紀が変わってとりわけアメリカの9.11があり、世界に「テロとの戦争」のレジームが敷かれた頃から、その変化の捉え方・論じられ方が、とかく既成の国際政治の枠組みからの論評に留まって、出来事の深い意味を見損なっている(そして政治的議論を、力によって設定された枠組みに流し込んでゆく)と思われ、アクチュアルな政治・社会的議論にも介入することになった。

もっとも、ヘーゲルにしてもハイデガーにしても、誰もが自分の生きる時代のなかで考えることに違いはなく、私も最初に『不死のワンダーランド』(1990年)を書いたときから、つねにアクチュアルな状況を参照しないわけではなかったし、『世界史の臨界』はまさに世界がキリスト紀元2000年代に入るその時を意識して書いていた。
だから、情況的な議論に加わることも取り立てて唐突なことではなかったはずだ(雑誌などでその機会を与えてくれたのは、そのことを知る編集者たちである)。
ただ、国際政治についての議論をする場合にも、世界にはさまざまな人びとが生きているということ、現代世界が西洋と呼ばれる地域文明の世界化によって造形されてきたということ、そこには産業化という形をとる認識や制度の体系、さらには技術についての考えの普遍化が含まれているということ、そしてその展開のプロセスの内に政治や経済や宗教、社会性の分節化があったということを、考察の内に含ませざるをえない。
それが私のような論者の、あまり理解されがたい特徴にもなる。