「あなたにだけ効く薬」は「誰にでも効く薬」よりも優れているのか?

「ゲノム医療」はひっくり返っている
大脇 幸志郎 プロフィール

「分子を標的にする」ことは新しいのか?

ふたつの映画に描かれているように、分子標的薬に対する世の中の期待は並大抵ではない。癌を治して副作用は少ないというのだから。しかし、現実はそれほど甘くない。

そもそも分子標的薬という言葉はいいかげんなものだ。グリベックやハーセプチンよりはるかに前に、シメチジンはヒスタミンH2受容体という分子を標的として設計された。H2という言葉でピンときた人がいるかもしれないが、市販薬の「ガスター10®」と同じH2ブロッカーだ。

シメチジンのように生体内で機能する分子を標的として新薬を設計する方法論は画期的だった。同じように特定の分子を標的とする薬は1970年代には続々と作られるようになった。その方法を確立させたジェイムズ・ブラックは1988年にノーベル賞を受賞した。

 

しかしガスター10を分子標的薬と呼んだらたぶん笑われる。なぜ笑われるのか、筆者には説明できないが、グリベックとハーセプチンは分子標的薬で、ガスター10は分子標的薬ではないらしい。

遺伝子変異だの分子標的薬だのといった、わけのわからない専門用語に惑わされてはいけない。分子標的薬の発想は、ひいき目に見てもガスター10よりは新しくない(厳しく見るなら、1910年に梅毒を治す「魔法の弾丸」としてサルバルサンを作ったパウル・エールリヒと秦佐八郎にまでさかのぼれるかもしれない)。分子標的薬という言葉は、最近の薬を特別扱いしているだけだ。

1910年代に使われたサルバルサンの治療薬キット。エールリッヒと秦佐八郎が発見したこの薬は「病原微生物に選択的に結合し、宿主の組織には結合しない化合物」ということができる。 Photo by SSPL/Getty Images

イレッサは「夢の薬」?

分子標的薬という言葉が広まっていったころ、「賢く効いて、副作用が少ない」というイメージもまた、抱き合わせで流通した。2001年11月2日の朝日新聞東京朝刊には「新抗がん剤、肺がん治療に高い効果 近大など臨床試験」という記事が載っている。

国内で臨床試験が続けられている新しいタイプの抗がん剤が、これまで治療が難しかった肺がんに高い効果を示すことが、近畿大学医学部、国立がんセンターなどが参加する国際共同研究でわかった。副作用も少ない。大阪市で開かれている日本肺癌(がん)学会で2日、発表される。

この抗がん剤は、英国のアストラゼネカ社が開発した飲み薬「ZD1839」(商品名・イレッサ)で、がん細胞の増殖に関係する酵素の働きを妨げる「分子標的薬」の一つ。正常な細胞も攻撃するこれまでの抗がん剤と異なり、がん細胞のみを狙い撃つ。
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副作用では、発しんや下痢が出た例もあったが、従来と比べて、大幅に改善されている。

この記事は一般向けの媒体としてはかなり早い段階のものだ。全国紙の朝刊がここまで強く言っている例はむしろ珍しい。以後このような図式的な説明は夕刊でなされるようになり、論調もいくらか抑制され、分子標的薬も正常細胞に障害を与えること、イレッサ®(一般名ゲフィチニブ)の試験でも重要な副作用が報告されていること、イレッサがどの程度役に立つかはまだわかっていないことなどに触れるようになった。

ともあれ、イレッサは2002年に「非小細胞肺癌(手術不能又は再発例)」を効能・効果として承認された(非小細胞肺癌という言葉は「肺癌の一種」と思っていれば、この先を読み進めるには十分だ)。ほかの国では未承認だった。審査報告書には、イレッサが癌を治したとか、癌患者の余命を伸ばしたというデータは載っていない。あるのは「奏効率」だ。

奏効とは大まかに言って、癌が小さくなったということだ。癌が小さくなったからといって患者が死ななくなるわけではない。その点は不明のまま、奏効率だけを頼りに承認が下りた。要するに「たぶん効くだろう」ということだ。

それでもちょうど『希望のちから』でハーセプチンを求めた患者たちのように、新しい薬だと聞いてイレッサを使いたくなった患者は無数にいたようだ。それが悲劇につながっていく。