「あなたにだけ効く薬」は「誰にでも効く薬」よりも優れているのか?

「ゲノム医療」はひっくり返っている
大脇 幸志郎 プロフィール

『薬の神じゃない!』とグリベック

現在日本でも上映中の映画『薬の神じゃない!』は、中国で2018年に公開されて大ヒットした。癌治療に使われる高額な薬「イマチニブ」をめぐって起きた実際の事件をもとにしている。

イマチニブ、販売名で言うとグリベック®は、癌治療の歴史を大きく動かした薬だ。慢性骨髄性白血病(CML)という、血液の癌の一種に対して高い効果をもつ。ある本はイマチニブの衝撃を語る医師の言葉を引用している。

「二〇〇〇年までは、CMLの患者さんを診ると、とてもたちの悪い病気にかかってしまったこと、死亡率がとても高いこと、予後不良であり、生存期間の平均は三から六年であること、治療の基本は同種骨髄移植で……そのあとにはもう治療法は残っていないことを伝えなければなりませんでした……今日、私はCMLの患者さんを診ると、これは進行の遅い病気で予後良好であり、グリベックという経口薬を生涯飲み続ければたいていは無症状のまま寿命をまっとうできますと話します」(シッダールタ・ムカジー『がん――4000年の歴史(下)』、359ページ)

これほどひとつの病気の意味が変わってしまうことはきわめてまれだ。

グリベックは「分子標的薬」とも呼ばれる。グリベックは癌細胞の増殖に重要な役割をもつ分子の作用を阻害する。増殖を阻害するので、癌細胞が増えなくなる。そして効く。特定の分子を標的にするから分子標的薬というわけだ。

グリベックは、のちに分子標的薬と総称される薬の草創期に登場した。グリベックの劇的な業績こそが、分子標的薬という言葉の地位を押し上げた。それほどの薬だからこそ、『薬の神じゃない!』で描かれたようなドラマが生まれた。

 

『希望のちから』とプレシジョン・メディシン

最初期の分子標的薬とされ、いまも使われている薬として有名なのが、乳癌に使われるハーセプチン®(一般名トラスツズマブ)だ。ハーセプチンの開発の歴史は、2008年の映画『希望のちから』で描写されている。この映画を通じて、主人公の医師兼研究者はハーセプチンがいかに以前の薬と違うかを繰り返し説明する。はじめのほうに出てくるセリフを引いてみよう。

抗ガン剤は毒性の物質でガン細胞を殺すが 健康な細胞も傷つけてしまう(…)人体にある蛋白(たんぱく)でガンの成長だけを止めるんだ

このセリフはハーセプチンがまだ作られていない段階のもので、結果としてできたハーセプチンは「人体にある蛋白」ではなかったのだが、基本的なメッセージは一貫している。この説明から当然想像されるとおり、「抗ガン剤と違って副作用がない」というセリフもあとで出てくる。

先端技術で健康な細胞を避けて癌だけを攻撃し、したがって副作用がない。これは分子標的薬の基本的なコンセプトであり、プレシジョン・メディシンのコンセプトでもある。そういえばハーセプチンもHER2という遺伝子を調べてから使うから、分子標的薬の歴史とプレシジョン・メディシンの歴史は同じころに始まっているとも言える。

そんなにいい薬ならだれもがほしがるはずだ。だから、登場する患者たちはハーセプチンを切望し、懇願し、効果に喜び、主人公に感謝する。