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「あなたにだけ効く薬」は「誰にでも効く薬」よりも優れているのか?

「ゲノム医療」はひっくり返っている

道理をひっくり返す魔法の言葉

ゲノム医療はひっくり返っている。そのことを強く感じさせる厚生労働省の会議が、9月25日にひっそりと開催された。

がん全ゲノム解析等連絡調整会議」というその会議が開かれることを筆者は知らなかった。「がん全ゲノム解析」という言葉そのものが、厚生労働省のプロジェクトからはすでに消えたのだと思っていた。2019年のこんなニュースを覚えている人は少ないのではないだろうか。

厚生労働省は20日、がんと難病の患者を対象に、すべての遺伝情報(ゲノム)を網羅的に調べる全ゲノム解析の実行計画を公表した。3年程度で最大10万人超の患者を目標に解析を進める。データベースを構築し、企業の創薬などに活用できるようにする。英国をはじめ欧米各国が全ゲノム解析に本腰を入れており、日本も国際競争のなかで効果の高い治療方法の開発につなげていく。(日本経済新聞web版2019年12月20日「全ゲノム解析、最大10万人超 がん・難病の治療に活用」)

このころ、「ゲノム情報をたくさん集めて、病気の治療に役立てる」という考えが集中的にメディアで取り上げられた。テレビでもたとえばこんな発言が当たり前になされていた。

日本人の2人に1人がかかる『がん』。

いま、その患者や家族から期待されているのが『がんゲノム医療』です。

遺伝子を検査することで、その患者に最適な薬を見つけ出すことができるもので、『夢のオーダーメード医療』とも呼ばれています。

6月から公的保険が適用され、この秋には全国の拠点病院などで検査が受けられるようになりました。

(NHKニュースウォッチ9「“夢の医療”に課題が…」、2019年11月26日)

しかしこのあといろいろあって、全ゲノム解析のブームは急に立ち消える。だから筆者はいまになって全ゲノム解析が復活していることに驚いた。何があったのかをみんな忘れてしまったようだ。だから、あの騒ぎを教訓とともに思い出すためにこの記事を書くことにした。

正確には、がん全ゲノム解析はただの技術だ。この記事は特定の科学技術の良し悪しを問題にはしない。「がん全ゲノム解析」という旗印の濫用を問題にする。ここで取り上げるプロジェクトは、あたかもがん治療に大きく貢献するかのように語られたが、実のところあさっての方向に展開したものだ。それは「ゲノム医療」と呼ばれるもの全体の信用に関わる。

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「ゲノム医療」とはなんだろうか。名前だけではなんのことかわからない。実際には癌(がん)治療の文脈でよく出てくる。おおむね「プレシジョン・メディシン(精密医療、高精度医療)」と同じ意味だ。

プレシジョンという英語には「狙いを絞って当てられる」といった意味がある。プレシジョン・メディシンは「多様な患者を十把一絡げに治療するのではなく、個々の患者の違いに注目して細かく狙いを絞る」という意味合いがあり、具体的には、癌細胞が持っている遺伝子変異を特定し、それに対応した治療薬を選ぶという手順を指す。遺伝子の情報を使うので「ゲノム医療」とも呼ばれる。

個人ごとの細かい差に注目して一番いい薬を選ぶ。一見いいことのように思えるが、それは事実の半分でしかない。この記事の狙いのひとつめは、プレシジョン・メディシンがものごとを逆さまにひっくり返した言説だと指摘することだ。

 

第二の問題として、ゲノムという言葉は多くの混乱のもとになっている。たとえば、遺伝子検査で薬を選ぶという意味の「ゲノム医療」と、議論のある段階における「全ゲノム解析」はまったく別のことを指している。

現代にあって、ゲノムという言葉はなんでも説明した気にさせる魔法のような力を帯びている。その結果として、全ゲノム解析という乱暴でぼんやりした研究方法が、あたかもゲノム医療を発展させるための有望な手段のように語られ、多くの問題が見過ごされている。ゲノム医療という言葉の魔力を解体することが、この記事のもうひとつの狙いだ。