天皇皇后が、緊急事態宣言から半年後も「厳しい自粛」を続ける理由

コロナに翻弄される「令和の天皇像」
原 武史 プロフィール

加えて、コロナ禍によって秋篠宮の立皇嗣の礼が4月から11月に延期となったことで、宮中祭祀で宮中三殿に上がって拝礼するのが、ほぼ天皇だけになっていることにも注意せねばなりません。平成の頃は天皇皇后、さらに皇太子も参加していたのが、令和のいまは皇后雅子も一部の祭祀を除いて出ていないわけで、天皇徳仁の体力的、精神的な負担はそうとうなものでしょう。立皇嗣の礼を11月8日に行うことにしたのは、11月23日の新嘗祭までに秋篠宮を皇嗣にし、天皇が新嘗祭の夕の儀と暁の儀を初めて行う神嘉殿に入れて祭祀の手順を会得させたいという思惑があったのかもしれません。

思い返すと、天皇明仁の退位に関する有識者会議で、渡部昇一氏や平川祐弘氏が「平成流」の活発な天皇像を疑問視して「天皇は祈っていればいい」という趣旨の発言をしました。まさに現在、天皇自身の意向に関わりなく、彼らのような右派が理想とする「祈る天皇」という役割が前景化しています。あるいは、京都御所にほぼ幽閉されていた江戸時代の天皇に戻っている感があります。

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「行幸」は今後どうなるのか

「平成流」の独自色がより色濃く現れたのが、頻繁な行幸啓です。

平成は、地震や台風、火山の噴火、水害などの天災が続いた時代でした。この30年間、天皇と皇后は被災地に寄り添うことを第一に考え、略装姿で、ときにひざまずき、手をとって国民と言葉を交わしてきました。国体や植樹祭などの行事で地方を訪れた際には、必ず近隣の福祉施設も訪問しています。各都道府県を少なくとも3回は巡り、沖縄や硫黄島ばかりか、海外の戦没者慰霊地にも足を運んできました。

昭和を知らない若い人たちにはピンとこないかもしれませんが、ここまで「国民に寄り添う天皇像」が確立したのは、平成が初めてのことです。その姿勢は、明仁・美智子夫妻が地方を回り始めた1960年代からすでに見られました。上皇明仁が退位時に「受け継がれることを望む」と話した「象徴天皇としてのつとめ」の一つとは、昭和と平成にまたがる60年間にわたって明仁・美智子夫妻が全国各地を回ることで、同じ目の高さに立ちながら一人一人に声をかけ、顔の異なる「市井の人々」と一体になることでした。それは昭和天皇が行幸の途上で万単位の国民と一体になることで視覚化された「国体」とは異なる、ミクロ化した「国体」の集積に他ならないと考えます。

『平成の終焉』で指摘したことですが、こうした行幸啓のあり方こそが、実は上皇明仁が天皇徳仁に一番引き継いで欲しいものではなかったか。しかし、現在それは物理的に不可能です。平成の天皇が象徴の務めとして重視した一つが、全くできていないわけです。大規模な行幸啓は、国民の移動が通常に戻っても、慎重を期して最後まで見送られるでしょう。