【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

唯一人の男が大英帝国に大打撃を与えた
神立 尚紀 プロフィール

チャーチルの側近となったスパイ

泳がされた状態のまま、センピルはスパイ活動を続ける。1925年10月30日、センピルは、豊田の求めに応じて、ヨークシャーにある航空機メーカー、ブラックバーン社を訪ねた。表向きの理由は単発機の視察だったが、ほんとうの目的は、同社が極秘に開発中の飛行艇「アイリス」である。

ブラックバーン社が開発した飛行艇「アイリス」。重要機密だったこの飛行艇の情報も、センピルは豊田武官に流していた

日本とイギリスは、大陸に隣接した島国として、国防上、求めるものが類似することが多い。飛行場がない海面から発着できる飛行艇の技術もその一つだった。

 

1926年1月、MI5は、機密事項を明かすことなくセンピルを訊問するチャンスを得た。ギリシャ駐在の英武官から、センピルが他国に情報を売って定期的に報酬を得ていること、経済的に苦境に立っていることが報告されたのだ。このことはセンピル自身の耳にも入り、彼は空軍大臣に、直接会って話をしたいと申し入れた。

同年5月4日、空軍参謀次長のオフィスで、MI5の空軍担当官、検察局長らが同席して、センピルの訊問が行われた。センピルは、情報提供は善意で行ったことで、飛行艇の情報を日本から求められたことはない、と嘘をつく。決定的な証拠をいくつも握っていながら、5月13日、英政府はセンピルの不起訴を決めた。父が国王側近を務めた貴族のセンピルを法廷に送りたくなかったのだと、イギリスの研究者は推測している。

失脚を免れたセンピルは、1934年、父の爵位を継ぎ、貴族院議員となった。この頃からセンピルは、極右的な政治思想を持ち、ナチスを支持、反ユダヤ主義のスタンスを明確にしていたという。

センピルを不起訴にしたことは、イギリスのみならず、アメリカにも影響をおよぼした。かつて「センピル飛行団」に加わった部下の准士官が、米陸軍航空隊に転籍し、日本の情報をアメリカに売る可能性について警告する豊田宛の手紙が残っている。日本に対するスパイの情報まで、日本側に伝えていたのだ。

また、1931年以降、センピルは、三菱の顧問として報酬を得ていたことも明らかになっている。センピルは収入以上の生活をしていて、その負債は、1940年頃には1万3千ポンド(現在の75万ポンド・1億円以上)にのぼっていたという。1937年4月9日、国王ジョージ六世の戴冠奉祝のため、東京からロンドンに飛来した朝日新聞社の「神風号」の出迎えの先頭に立ち、

「2人の日本の友人が成し遂げた偉業を、イギリス航空界は誇りに思う」

と祝辞を述べたように、日本に友情以上の親近感を抱いていたのは確かなようだが、経済的な事情もあり、ハイリターンなスパイ活動を、やめるにやめられなかったのだろう。

937年4月9日、ロンドンに飛来した朝日新聞社の神風号
神風号の歓迎式典で祝辞を述べるセンピル

1939年、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、センピルは、海軍大臣に就任したチャーチルに請われて海軍省に籍を置き、航空資材部門のトップになる。そのさい、今後、日本人といっさい軍事に関わる交流はしないことを誓約したが、1940年、三菱商事ロンドン支店長・槇原覚(のち社長)がスパイ容疑で拘束された際には無実を訴え、自らが保証人となって釈放されたのちには、槇原に祝意の手紙を送ったりもしている。

いまやドイツの同盟国となった日本との開戦は必至の情勢になっていた。1941年8月、大西洋上のイギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上で、イギリスのチャーチル首相とアメリカのルーズベルト大統領が極秘に会談を持った。チャーチルは、中立を保ち続けるアメリカの参戦を促そうとしたのだ。

ところが、ロンドンの日本大使館から本国に送られた電報を解読した英当局は、極秘であるはずのこの会談の内容が、日本に筒抜けになっていることに驚愕した。これは、チャーチルの身近なところにスパイがいることを意味する。チャーチルは即座に調査を命じ、二人の容疑者が浮上した。一人はセンピル、もう一人はセンピルの部下だったマクグラス中佐である。1922年からずっと、MI5がマークしてきたのにもかかわらず、チャーチルはセンピルに情報を与え続けていたのだ。

――だが、海軍での職を失うことと引き換えに、またもセンピルは収監を免れた。このことも、「彼が貴族だったから」だったと、英研究者は見ている。

いっぽう、ハワイ・真珠湾では、もう一人のイギリス人が日本のスパイとして活動していた。日本海軍に発着艦技術を指導した第一次大戦の英雄、フレデリック・ジョゼフ・ラトランドである。ラトランドを操っていたのは、かつて彼を日本に送り込み、二度めの駐英勤務をしていた高須四郎大佐(当時)だったと言われている。

ラトランドは小舟をチャーターし、真珠湾の米艦隊の動静を16ミリフィルムに撮影し、情報を日本に送っていた。FBI(米連邦捜査局)が彼の動きに疑念を抱き、泳がせて拘束するタイミングを測っていたが、そのことはMI6(英秘密情報部)も察知するところとなり、ラトランドは1941年10月、イギリスに帰国したところを「敵対的行為」の容疑で逮捕、2年にわたり拘留される。

センピルとラトランドで、これほど露骨な扱いの差があったのは、貴族と叩き上げの軍人という出自の差、身分差別によるものと解釈されても仕方がないだろう。ラトランドは1949年1月28日、62歳で自ら命を絶った。