【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

唯一人の男が大英帝国に大打撃を与えた
神立 尚紀 プロフィール

英情報機関は把握していた諜報活動

センピルやラトランドと、日本海軍との密接な関係は、日英同盟が解消されたのちも続いた。それは、単なる友好の域を超えたものだった。1998年から2002年にかけ、英国立公文書館が公開した文書で、彼らが日本側にイギリスの機密情報を売り渡していたことが明らかになったのだ。

 

MI5(英保安局)の報告書によると、センピルに最初に疑念がもたれたのは1923年1月9日のことである。センピルが日本人と頻繁に会っていることを掴んだMI5は、センピルの身辺捜査を始めた。同年10月、大使館附海軍武官として豊田貞次郎中佐(翌年12月大佐、のち大将。海軍航空本部長、商工大臣、外務大臣、軍需大臣などを務める)が着任すると、センピルは豊田と定期的に会食を持ち、頻繁に手紙のやりとりもするようになった。

――じつは筆者は、豊田貞次郎大将の次男である武田光雄氏(元海軍大尉。1920-2006)とは生前、懇意にしていて、武田氏のご子息(豊田貞次郎の孫)邦義氏とも交流がある。英テレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」日本語版の監修をしたとき、英語の原文では「豊田は訓練を受けた凄腕のスパイだった」と言う意味のことが語られていて、邦義氏にそのことを訊ねると、

「まったく知らない。聞いたこともない」

ということだった。もちろん、スパイが「俺はスパイだ」と触れ回ることはあり得ないし、親族が知らなくても、それはある意味当然なのだが、豊田武官の経歴を見ても、スパイとして特別な訓練を受けたような形跡はない。赴任先の情報収集は駐在武官の任務の一環だから、あくまでその範疇の活動であったと解釈して、日本語版では、

「ただパーティーなどに出席するだけの凡庸な武官ではありませんでした」

と、表現を弱めたいきさつがある。しかし、イギリスでは「訓練を受けた凄腕のスパイ」と見られているわけで、さすが007の国だな、と思った。

センピルから情報を得ていたとされる駐英武官・豊田貞次郎(のち大将。写真は中将当時)

ちなみに豊田武官は、それ以前にも明治44(1911)年から大正3(1914)年まで2年半、英国に駐在し、オックスフォード大学に留学したことがあり、英国事情に明るく、幅広い人脈もあった。

大正12(1923)年10月からの駐英武官生活は、大正15(1926)年12月まで3年以上におよび、その後もジュネーブ海軍軍備制限会議の随員に選ばれてスイスに渡るなど、昭和2(1927)年11月、巡洋艦「阿武隈」艦長に発令され帰国するまで、4年以上も海外に留まり続けていた。

1924年2月、MI5は、センピルが豊田に送った手紙を入手した。1月7日付のこの手紙は二重の封筒に入れられ、内側の封筒には「極秘」の文字がある。内容は、イギリス空軍が開発中の大型爆弾についての詳細だった。これは、大型艦の撃沈にもつながる重要な機密である。さらに7月、豊田は英海軍の観艦式に招待され、そこで空母を見学、さらにセンピルから、イギリスの軍艦設計の第一人者、テニソン・ダインコートを紹介される。

7月27日付で、センピルから豊田に宛てた手紙には、

「空母はよくご覧になれましたか? ダインコートなら有益な情報の提供に最善を尽くしてくれるでしょう」

とある。だが、ダインコートが当局から警告を受け、情報提供を断ったために、センピルはさらに英空軍のチャールズ・ビビアン少将を豊田に引き合わせた。当局の動きをセンピルも察したのだろう、このときの紹介の手紙には、

「この件は他言なさらぬよう。外部に漏れると問題です」

と書いている。

センピルが豊田武官に紹介した軍艦設計の権威・ダインコート

1924年7月、MI5はさらに、センピルが国家機密保護法で保護される重要機密を漏らした証拠を入手した。最新式の航空機エンジン、ジャガーⅣの開発経過やその性能について、豊田への手紙で明かしたのだ。

だが、センピルのスパイ活動についての確かな証拠を握りながら、MI5は動かなかった。1920年代、MI5はすでに、日本の外交電報の暗号解読に成功していたが、そのこと自体が国家機密である。センピルを起訴すれば、当局が隠しておきたい情報の入手ルートまでもが明るみに出る危険性が高いと判断したからだ。