【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

唯一人の男が大英帝国に大打撃を与えた
神立 尚紀 プロフィール

英国へ帰国時には絶賛された功績

こうして、日本海軍に大きな収穫を与え、センピルは翌大正11(1922)年10月に任務を終えた。記録によると、センピルは10月27日に東京発、箱根、京都を観光ののち、31日、門司を出港する「伏見丸」に乗船、帰国の途についた、とある。日本側に残る『英飛行団ノ功績ニ就テ』と題した文書には、

〈団長センピル空軍大佐は資性極めて誠直謹厳、年齢未だ30に満たざる英国貴族にして、航空については実にその本国の権威ともいうべく〉

から始まり、

〈団長以下全員は挙げて我が海軍航空に一大革新を与えんことを期し、面目を賭して努力せしものにして、従って各部の実績は団員の期待に背かざるのみならず、我が当局の期待を超え、すこぶる見るべきもの多し。一行の功績は独り海軍のみならず実にわが国航空史上に永久に消ゆべきものにあらずと認む〉(現代文約)

と、じつに用箋15枚にわたってその功績が綴られている。絶賛と言っていいだろう。

 

センピル一行が教えた講習員は、士官70名、兵から累進した特務士官・准士官6名、下士官兵142名におよび、彼らがのちに、日本海軍航空隊が発展する基礎をつくった。日本政府は、センピルの功績に対し、勲三等旭日中綬章を授与している。日本から帰国したセンピルは、各国政府にイギリス製兵器購入を助言する仕事についた。

センピル一行が日本で航空術の指導に明け暮れていた頃、日本の海軍力増強を脅威に感じていたアメリカの働きかけで、ワシントン軍縮会議がはじまった。この会議の結果、日本の主力艦(戦艦)保有数は、米英の6割に制限され、20年以上にわたって続いた日英同盟も1923年をもって失効することになった。

ワシントン軍縮条約のあおりを受け、主力艦の保有枠を超えて建造中だった戦艦「加賀」と巡洋戦艦「赤城」は、空母に改装されることになる。だが、日本海軍は当時、空母運用についてのノウハウをほとんど持っておらず、飛行機の発着艦すら手探りの状態だった。

そこで、在英国大使館附武官補佐官・高須四郎少佐(のち大将、第一艦隊、南西方面艦隊司令長官などを歴任)の口利きで日本海軍が招聘したのが、叩き上げの軍人で、英空軍を退役したばかりのフレデリック・ジョゼフ・ラトランド大尉である。

ラトランドはセンピルより7歳年上、イギリス海軍航空隊の草分けの一人で、1916年、英独海軍が激突したユトランド沖海戦では航空偵察で敵艦を発見するなどの殊勲をたて、「ユトランドのラトランド」の異名で知られていた。巡洋艦の砲塔に取り付けられた臨時の飛行甲板から、世界初の発艦に成功したのもラトランドである。1918年、空軍に移籍、第一次大戦後は空母「イーグル」の飛行隊長を務め、1923年に退役、来日した。

フレデリック・ジョゼフ・ラトランド。第一次大戦の英空軍の英雄。航空母艦の指導に来日、のちにセンピル同様、日本のスパイとなる
同上

来日の理由について、ラトランドはのちに、

「もう戦争は起こらないと思った。そこで軍を退き、生来冒険好きだった私は日本に行くことを決めた」

と語っている。ラトランドは三菱航空機に籍を置き、東京にオフィスを構え、日本海軍に空母飛行甲板の構造についてのアドバイスをした。さらに、日本のパイロットに発着艦の技術を教えれば昇給させる、との要請にも応えた。