【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

唯一人の男が大英帝国に大打撃を与えた
神立 尚紀 プロフィール

破格の待遇で迎えられた英国人教育団

こんにち、「センピル飛行団」とも「センピル教育団」とも呼ばれる一行は、センピル自らが指名した英軍士官18名、准士官(兵曹長)12名の計30名。それぞれ、操縦、技術、兵器、整備、偵察、写真、落下傘、航空医学などのエキスパートだった。

 

防衛省防衛研究所には、センピル一行招聘について、一人一人の団員との契約書から、宿舎の手配、歓迎会、観桜会への招待状、交通費の日本側負担についての関係機関とのやりとりなど、詳細な書類が残されている。

それによると、センピルに支払われる報酬は、前金で1500ポンド(英国立公文書館㏋によると、現在の43,586.55ポンド-約600万円-に相当するが、当時はこれで馬54頭が買えたというから、単純にレートだけでは比較できまい)、来日後の年俸は、日本の現役海軍大将の約2倍にあたる1万2413円76銭で、これが2068円96銭ずつ6ヵ月に分けて支払われることになっていた。

副長のMeares中佐は、前金500ポンドに年俸はセンピルと同額、大尉クラスでも前金237.10ポンドに年俸2482円(日本海軍の大尉の約2倍)となっている。

日本との往復に士官は一等船室(運賃定価片道1100円)、准士官は二等船室(同735円)があてがわれ、日本国内での移動や宿泊も、階級に応じた額を日本海軍が負担した。加えて、船賃は自己負担になるものの、妻帯者は妻子を同伴することを認められ、不慮の事故で死亡または負傷した場合の支給金についても、こと細かに定められている。当時としては破格の待遇と言えるだろう。

センピルは大正10年6月11日、妻アイリーンと幼い娘、そしてメイドを同伴して日本郵船「佐渡丸」でロンドンを発ち、7月31日に神戸着。8月1日朝、列車で東京に到着し、上野から常磐線列車に乗って、同日午後には、海軍が造成したばかりの霞ケ浦飛行場に着任した。ほかの団員たちも、7月から順次、来日している。団員たちは特別に用意された外国人宿舎に居を構え、センピルは土浦郊外の一軒家に住むことになった。

1921年7月31日、神戸港に到着したセンピル夫妻(前列)
センピルは土浦郊外に一軒家を構えて暮らした。和装のセンピルと妻・アイリーン。アイリーンは1935年歿

ここに、翌大正11(1922)年10月まで、1年3ヵ月にわたる「センピル飛行団」による講習が始まった。

講習用に、日本海軍がイギリスから購入した飛行機は、アブロ陸上練習機72機、アブロ水上練習機24機、スパロホーク艦上戦闘機50機、ほか、艦上偵察機12機、艦上雷撃機12機、飛行艇5機、水陸両用観測機4機、雷撃機2機の計181機におよぶ。

菊池朝三中尉の回想によると、講習ははじめ横須賀で、日本ですでに一人前のパイロットとなっていた者の再教育から始まって、続いて霞ケ浦飛行場を用い、これから操縦を学ぶ航空術学生(のちの飛行学生)が一から教わる形となった。

センピルの教えを受けた講習員のなかには、桑原虎雄大尉(のち中将)、大西瀧治郎大尉(のち中将)、吉良俊一大尉(のち中将)、千田貞敏大尉(のち中将)、三木森彦大尉(のち少将)ら、太平洋戦争中、航空戦隊司令官や航空艦隊司令長官として海軍航空部隊を率いた者が少なくない。

霞ヶ浦飛行場で、センピル(前列中央、脚を組んだ人物)と日本海軍の航空隊員たち
1921年8月、センピル飛行団による指導が始まる。中央がセンピル

教育団の軍紀は厳正で、その教育は「峻厳」の一語に尽きたという。講習はすべて英語で行われたが、単に知識を授けるだけでなく、飛行機乗りは愛機と運命を共にする心構えを叩き込み、飛行作業後の飛行機や機材の清掃にも厳しく、日本側講習員に少しでもミスや気の緩みがあると容赦なく叱った。

「これが後日、我が海軍航空の大をなす礎となった」

と、菊池は手記に書き残している。

センピルたちは日本海軍の講習員に、最新の飛行機や、航空魚雷などの新兵器について、惜しむことなく教えた。イギリスではすでに、建造中の客船を改装した空母「アーガス」、建造中の戦艦を改装した空母「イーグル」を就役させていて、搭載した飛行機で自在に敵地を攻撃するという、まったく新しい戦法を模索していた。

センピル飛行団による、水上機訓練の模様
航空魚雷の投下風景。この飛行機を操縦しているのはセンピルとされる

その可能性に着目した日本海軍も、空母「鳳翔」をすでに起工している。はじめから空母として設計された艦としては、英海軍の「ハーミズ」のほうが先に着工されたが、竣工は1922年12月の「鳳翔」のほうが早く、「鳳翔」は世界初の正規空母となった。センピル一行は、空母の飛行甲板の建造技術についても日本側に指導した。日本人として初めて、空母への着艦に成功(大正12〈1923〉年3月16日)したのは、講習員の一人だった吉良俊一大尉である。

吉良俊一大尉による空母「鳳翔」への着艦風景
日本人として初めて空母に着艦した吉良俊一大尉(のち中将)

センピルたちによる講習の模様を、皇太子(のちの昭和天皇)や、日露戦争の日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥が、わざわざ霞ケ浦まで視察に訪れたことを見ても、海軍がこの講習にいかに期待を抱いていたかがうかがえよう。

1922年6月18日、皇太子(のちの昭和天皇)が霞ケ浦飛行場に行啓、センピルの案内を受けた
東郷平八郎元帥に飛行機の説明をするセンピル