ウィリアム・フォーブス・センピル。英空軍大佐。日本海軍に航空技術を教え、のちに日本のスパイとなったとされる

【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!

唯一人の男が大英帝国に大打撃を与えた
第二次世界大戦が終結して半世紀以上が経った1998年から2002年にかけ、イギリス国立公文書館が公開した文書のなかから、日本にまつわる驚くべき事実が明らかになった。
航空機がまだ発展途上だった大正10(1921)年、技術指導のため日本海軍が招聘したイギリス人将校、マスター・ウィリアム・フォーブス・センピル(William Fobes-Sempill)が、その後、日本のスパイとなって、イギリス軍の機密情報を日本側に流し続けていたというのだ。2012年、このことをテーマにしたイギリスのテレビ番組『チャーチルを裏切った男たち』(原題Fall of Singapore:The Great Betrayal。Brave New Media)が制作され、その日本語版(NHK BS世界のドキュメンタリーで同年12月18日放送)を筆者が監修した。
折しも、映画『スパイの妻』が話題になっているいま、センピルがいかにして祖国を裏切り、歴史に影響を与えたか、日本側の資料とともに振り返る。
 

航空技術伝授のために来日した28歳の軍人貴族

1903年、ライト兄弟が、世界で初めて有人動力飛行に成功した飛行機は、第一次世界大戦(1914-1918)で戦争に使われたこともあって、わずか10数年で急速な進歩を遂げた。

日本でも、その可能性についてはかなり早い時期から注目され、明治43(1910)年12月、代々木練兵場で、日野熊蔵陸軍大尉がドイツから購入したグラーデ単葉機で、徳川好敏陸軍大尉がフランスから購入したアンリ・ファルマン機で、日本初の飛行に成功している。同年5月、海軍も金子養三大尉をフランスに派遣、明治45(1912)年には河野三吉大尉らをアメリカに派遣し航空技術を学ばせ、大正元(1912年7月30日より元号が大正になる)年11月、河野がカーチス機、金子がファルマン水上機で、それぞれ飛行に成功した。

大正3(1914)年、第一次大戦の勃発とともに、連合国の一員としてドイツに宣戦し参加した青島攻略戦で、水上機母艦「若宮」からファルマン水上機が出撃したのが、日本海軍航空部隊の初陣である。

大正7(1918年)、第一次大戦が終結すると、戦勝国となった日本は、翌大正8(1919)年、陸軍がフランスからフォール大佐の率いる教導団を招いて、埼玉県所沢、岐阜県各務原で、大戦で得られた戦訓をもとに航空戦術の指導を受ける。

海軍もこれに便乗して講習を受けたが、対地作戦を主とする陸軍と、洋上作戦を考える海軍とでは求めるものが違う。そこで海軍は、軍令部航空部部員であった大関鷹麿中佐が中心となって、イギリスから飛行教育団を招聘し、長期間にわたって組織的、系統的な指導を受けることとした。

イギリスを選んだのは、大戦中、操縦訓練での死亡率が他国に比べて低いという結果が出ていて、その訓練法を学びたかったからでもある。

大関中佐は英国駐在武官を勤めた経験があり、イギリス海軍にも知友が多く、あらかじめ候補者をマークしていた。イギリス側としても、1902年以来の同盟国で、第一次大戦をともに戦った日本に航空技術を教えることは、東洋の安定につながるばかりか、それだけ多くの兵器を購入させることができる。

2012年に制作されたイギリスのテレビ番組「チャーチルを裏切った男たち」によると、イギリスでは、

〈日本人は騎兵としては二流だと思われていた。その日本人に飛行技術を教えたところで一流のパイロットにはなり得ず、英国の脅威にはならない〉

と考えられていたのだという。このいわれなき人種的優越感が、のちにイギリスの首を絞めることになろうとは、誰も予想だにしていなかった。

ともあれ、大関中佐が主導し、日本海軍が招聘したのが、スコットランド貴族(男爵)の跡継ぎで、第一次大戦でも活躍したウィリアム・フォーブス・センピル(1893-1965)である。

ウィリアム・フォーブス・センピル英空軍大佐

センピルは、名門イートン校を卒業、1914年、第一次大戦が始まると英陸軍航空隊に入隊、飛行任務につき、のち海軍、空軍と転籍。28歳の若さで空軍大佐に昇進し、1919年に軍を退役していた。当時は爵位継承者を示すマスター・オブ・センピルと呼ばれており、父のジョン・フォーブス・センピルは国王ジョージ五世の侍従武官を務めていたという。

講習員の一員としてセンピルの教えを受けた菊池朝三中尉(のち少将、第一航空艦隊参謀長、戦後土浦市議)の回想によると、センピルは、大英帝国の統治下にあったインドの航空総督の内示を断っての来日だった。