団塊ジュニア世代が一貫していないのは当然…中野信子さんの気づき

人は複数の側面を使い分けて生きている
中野 信子 プロフィール

私たちの世代の履歴書があまりにも「汚い」ために、そのことで上の世代の人間はかなり驚かされるという。

汚い、というのは、職歴欄にびっしりと書き込みがあり、またそれが一貫しておらず、業種をまたいで職を転々としているさまがありありと刻まれている、ということである。

履歴書が汚い、というのは必ずしも私たちのせいではない。むしろ汚いと言い放つその世代の人々の放ほう恣し のシワ寄せがこちらに来ているということであるのかもしれず、言い回しそのものが非常に失礼に感じられるものである。

が、もう少し前向きな解釈が可能であるとすれば、この表現をされてしまうという事実に端的に表れているのは、私たちこそが、それまでの価値観から抜け出すことのできた最初の世代だ、ということにもなるだろう。

 

一貫していないのは、当然

近代は1945年に終わった、とする見方と、1989年に終わった、とする見方がある。

第二次世界大戦終結をもって現代の始まりとするのか、ソ連邦の崩壊をもたらした東欧革命をその区切りとするのか。大きな物語の終焉、という意味では、いずれも重要な意味を持つ年ではある。

ただ、1964年の東京オリンピックと、あるはずだった2020年の東京オリンピックでは、大衆の受け止め方が明らかに違っている。

1964年は、国という物語を多くの人が信じ、大衆の共同幻想を膨らませる形でこのイベントが大いに機能した。けれど、2020年はどうなのだろう。

1964年の東京オリンピック(photo by gettyimages)

1989年の大きな物語の終焉と同期するようにして、CERN(欧州原子核研究機構)がワールドワイドウェブを発明したというのは示唆的だ。

ワールドワイドウェブが開発されたのは、1989年3月12日。現在、私たちが使っているインターネット世界は、この年に産声を上げたのである。

この同じ時に、私たちの世代は思春期を迎えている。生まれた子どもの脳が、もう一度生まれ変わるような劇的な変化を経験するのが発達段階的にはこの時期である。私たちは、世界の変化と自身の変化を重ね合わせるようにして体験してきたのである。

私たちが一貫していないのは、当然ではないだろうか? 一貫していたら生き残ることができない、ということを、変化の大きい世界を肌で感じながら、学習してきたのではなかったか。

一貫していることにこだわる、転向や変節といった言葉に過敏なまでに反応する人たちの失敗を横目で見ながら、ああなってはいけないよと直接間接のメッセージを受け取って、自身の航路を手探り状態ながら、自分の生き方をそのつど選んで生きてきたのである。

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