どの本を読んでも、「中野信子」が見えてこない、と言われることがある。
それはそうだろうと思う。どちらかといえば、むしろ像がブレるように作っているところもある。そこまで読み込んでくださっている人がいるのは光栄なことだ。
モザイクのように出来上がっている中野信子の姿を、何がしたいのかよくわからない、といってお叱りいただくこともある。が、そういうその人こそ、何がしたいのかよくわからない。
とりあえず、目につく存在に文句を言って一過性の清涼感を得ようとしているのだろうか。他に楽しみを見つけることのできないやや残念な脳の持ち主かもしれない。
そう思うと、どうにも寂寥感が漂い、抑えがたい悲しみが押し寄せてくる。何がしたいのかよくわからない、というのは、何がしたいのかわからなくては生きている価値がない、という言葉の省略形だから。
私自身は「無駄を肯定したい」と公言していることをここではしっかりと明記しておきたい。世間の多くの人々は、無駄を許すような経済的、心理的余裕を、どうも持ち合わせてはいないように思える。
そんな中で私だけが、あなたの生のどうしようもない無駄さ加減を肯定してあげられる人間なのかもしれないのに。攻撃をしてくるとは、本当にわかっていないなと思う。
何がしたいのか、わかる方がつまらない。何十年も先が見えてしまうような生き方は退屈ではないのか。見えてしまう方が気持ち悪くはないのだろうか。
私たちの世代は、おそらく戦後の世代で初めて、社会の挫折の煽りをダイレクトに喰らった世代である。私たちより前の世代にとっての世界と、私たちにとっての世界は百八十度、違っている。
私たちより上の世代の人々にとって、今日より明日は必ず明るかった。
私たち以降の世代にとっては、そうではない。今日より明日は必ずしも明るいとは
限らない。それどころか、明日、明後日と、着実に暗くなっていくようですらある。
そんな時代を、どう暮らしたらいいのか。私たちはそんな不穏な予感を戦後初めて持
った世代かもしれない。子どもをつくり、産むことをためらうほど。
私たちが失われた世代、と名付けられているのは象徴的だ。1970年代に公害まみれの日本に生まれ、壮絶な校内暴力の真っただ中で、今の子どもたちには想像もつかないような苛烈な受験戦争にさらされ、人生を有利にしようとして必死で入ったはずの大学を卒業しても、卒業時には就職氷河期のど真ん中だった。
誰も、私たちを求めていなかった。持って回った言い方をすれば、まるで、あらかじめ失われた人間たち、とでもいえるだろうか。
私たちは団塊ジュニア世代、という言い方をされることもある。これは、ただ団塊の子どもたちであるというだけではない。ただ人数が多かったというだけでもない。
団塊ジュニアというのは、多数の中に埋没することを運命づけられた世代なのである。集団と個の関係を否応なしに意識させられる。
埋没するまいと、個性を下手に顕在化させようとすれば、上の世代や同世代の多数からの攻撃に遭うことも既定路線だった。
私たちは、生まれてからずっと、透明な存在だった。失われるどころか、そもそも誰に求められてもいなかった。