世界は、「新世界」という新たな身分制社会になだれ込んでいる!

「自由」を解消する方向へ進化して
西谷 修 プロフィール

もちろんそれは情報発信のデモクラタイゼーション(民主化)であって、良い面もあります。ただし、情報がすごく多くなります。そのため、いわゆる折り紙付きの情報とそうではないものとが無差別に溢れます。

SNSは事実とウソが分かちがたく混じり合う(photo by gettyimages)

多くの人が多くの情報に接するようになると、論理的な手続きを経るとか信頼度を気にするとかよりも、「あっ、これいいじゃん」「そうなのか」と、自分の好みや気分に合うものに対してすぐに反応してしまう。

だから、ウソだろうがデマだろうが、うまく反応を誘ったものが流通するようになる。その反応が情報発信者を励ますだけでなく、多くの場合、情報発信にコマーシャルがついていたり、スポンサーがついたりして利益にも結びついている。

正確さとか信頼性だとかは情報流通のなかで第一義的な価値ではなくなり、好みや気分に合ったものがネットのなかでどんどん反復・増幅されていくことになるわけです。

感情的反応ということがよく言われますが、論理的とか、妥当な情報を見分ける慎重な判断は、このような情報流通の実勢の中であまり意味を持たなくなります。

意味内容やそれに対する検証、あるいは信頼度といったことではなくて、反復の強度の強いものが流通力を持ち、そのこと自体が情報の価値になってゆきます。その価値は抽象的なだけでなく商品価値でもあります。

すると情報は、もはや真実かどうかを支えにしなくてもよい。それとは違った形で情報が流通・増幅されるということが、技術的可能性が開いたコミュニケーション状況のデフォルトになっているのです。

 

言えなかったことが言える

デジタル化以前にもその徴候はありました。まず情報のPR化であり、ついで商品化です。PRは人をモノに惹きつけるための情報です。それから、情報そのものが商品化されます。

それは、たとえばテレビのニュースの視聴率評価、といったところに現れます。視聴率をとるために娯楽性を高めるとか。そういう前段があって、ネットがその流れを物理的なインフラから解放したということですね。

そこでもうひとつ特徴的なのは、「公私」の区別がなくなるということです。私的なツイートがそのまま外に出てゆくことになりますから、もう「公私」の区別はありません。

こんなこと言ったらまずいとか、恥ずかしいといったことが、どんどん発信できるようになります。コミュニケーションでの公共性の敷居が取り払われたのです。事実とずれたところに恣意的な標的を作って、そちらに人びとの敵意を流すといったことも平気でできるようになる。そしてその恣意は「表現の自由」を盾にするということです。

政治家の公式スピーチよりツイッターの方が注目される。そっちが「本音」だとみなされるからです。「本音」を言う、つまり社会的には「抑圧されていた」ものの蓋が開いてきたということです。それが「ポスト・トゥルース」の状況です。

このように、情報のステータスがガラッと変わって、私たちはそれに頼れなくなったのですね。情報テクノロジーが万人化したがゆえに、そして情報空間が市場化・自由化されているがゆえに、逆にそういうことになってきた。

だから、未来が見えない不確定な状況というのは、そのことを考えようとするときの土台そのものも揺るがしている。だからこそ、私たちの生きている世界がいまどうなっているか、その足場を少し歴史的にたどって測ってみようというのが本書の狙いです。

 

新たな身分制社会に

以上、簡単にまとめ直しておけば、私たちのいま生きている世界の「動態」をどのように捉えるかということを、ここ200年ほどの時間の厚みを振り返りながら考えてみようということです。

「私たち」は現代の世界に生きていますが、さらに限定されて日本で生きています。そして日本と世界との関係は、グローバル世界だからといってただ単に透過性のものではなく、日本について言えることと世界について考えられることとは、繋がりながらも違っています。

日本は世界のなかの特殊な個別ケースですから、当然のことではありますが、なかなかそこを分節化しにくい。それで、国際関係という枠を設けて、日本の「動態」と世界の「動態」とを分け、かつ繋げて考えてみました。

本書の見通しとしては、この200年を通して、世界は、そしてその中で日本も独特の仕方で、「近代」のもたらした「自由」を解消するような方向に「進化」しているのではないかということです。

政治社会的解放の成果が、テクノロジー経済の自律的発展によって、「新世界」という新たな身分制社会になだれ込んでいるのではないかということです。

それに対する是非の判断はここではしません。事実、そうなっているのではないか、ということを俯瞰的に述べていきたいと思います。