世界は、「新世界」という新たな身分制社会になだれ込んでいる!

「自由」を解消する方向へ進化して
西谷 修 プロフィール

急き立てるテクノロジー

超富豪とバラ色のテクノロジー、それによって世界は便利かつ安逸な方向にプログラミングされてゆく。未来がそんな形でしか思い描けないとすれば、その未来のいびつさや嘘っぽさ、それに何より非人間性がまったく視野の外に置かれ、見えないことで逆に不安を掻き立てる。現代はそういう時代なのではないかと思います。

その不安は実は多くの人びとに共有されているのではないでしょうか?

とくに日本は3.11を経験しました。原発事故によっていわゆる原子力、核エネルギーというものが、人間社会にとっては制御できないものであり、「想定外」は起こるということ、そしてそれに対しては対応策がないことが明らかになったはずです(対応できることしか「想定」していないわけですから)。

米国・ニューメキシコ州の歴史博物館に展示されている原子爆弾のレプリカ(photo by gettyimages)

核技術は、原子核を壊して化学的な燃焼とはまったく違った、物質基盤結合の膨大なエネルギーを放出させます。すると核崩壊が連鎖して、安定した物質になるまで放射線を出し続ける。それを止める技術はない。

人工的にできるのは原子核を壊すこと、崩壊を引き起こすことだけで、その引き金を引いたら、あとは放射線を放出しながら物質が崩壊していくプロセスに委ねる。つまり「自然」に任せるしかないという「技術」です。

だから、最初のエネルギーを都合よく利用したつもりでも、処理できない核燃料の残りが出ます。それが放射線を出し続け、最終的に安定状態になるのに何万年もかかる。それに手を付けた人類は、人類史の時間を超える射程をもって、危険な残り滓をずっと管理していかなければいけない。

 

技術と人間の関係の根本的変化

「フクシマ」の名前で呼ばれるようになったこの問題は、科学技術と、社会と、人間の時間について大問題を提起したのです。

これは核技術だけでなく、それ以後の科学技術のいわば構造的な特徴でもあります。しかし、その他の分野では国家事業は「民営化」ということで、各分野が市場に委ねられて進むから、核技術の提起した問題は誰にも扱えなくなります。

こういうことに最初に注目したのは哲学者のハイデガーでした。世界の生物学会が遺伝子工学を提起したころ、彼はそれと核技術との同時代性を指摘していました(『放下』)。技術と人間との関係の根本的な変化を画するものだと言うのです。

科学技術は人間の生活を豊かにする優れた道具だとみなされ、人びとの幸福に資すると期待されていたのですが、それが核技術や遺伝子工学に至ったとき、科学技術の成果は人間のコントロールを超えるものになって、人間は宙吊りになる。もはや目的に対応するプロジェクトは成り立たないというのですね。

テクノロジーは、そういう段階に深く入っています。それは有益な道具をつくり出すと見えて、予測しえない事態に人間をさらし、人間の制御しえない結果を引き起こすものになっています。

それを世界は科学技術の進歩と言っているのですが、かつて国家の戦争のためにこのような異次元に入ったテクノロジーは、いまでは経済成長に欠かせないモーターとして、競争の中で闇雲に急き立てられて(ハイデガーの用語です)いるかのようです。

底が抜けた状況

そんなわけで、科学技術の進歩、それによる人類社会の発展と言われていた「進歩・発展」が迷走し始めて、この先どうなるかが不透明なのです。

イノベーションによって社会はこんなふうに進化しますと言われても、それは空中楼閣なんじゃないか……、そんな不安が根底にあって、未来の夢が語られても、その夢は時間とともに初めから灰色とか茶色にくすんでいる、そんな状況でしょうか。

そのような状況を、私たちは人類の一人としてというよりも、日本なら日本という国で、その社会のあり方に規定されながら生きています。けれども現代では、当然ながら私たちの生活は国内だけで完結していないし、日常的にも世界と繋がっています。着るものひとつとっても、食べ物でも水でも薬でも医療でも娯楽でもなんでもそうです。最近のパンデミックというのもそうですね。

photo by iStock

そのことを念頭に置くと、いま漠然と感じている「未来への不安」というものも、ここだけの問題ではなく、ある世界的な状況の、日本における現れ方だと考える視点が必要になるでしょう。つまり私たちの置かれた状況というとき、それは日本でもあれば世界でもあり、私たちはその連接を通して生活しているということです。

だから、この底が抜けたような状況というのも、何がどう抜けてしまっているのか、それを広い視野で、かつ複合的に考えてみる必要があるということです。この「底が抜けた」というのは、グローバル化が語られるときの、境界がなくなるとか、フラットになるということと無縁ではないでしょう。そこには国境があり差異があるけれども、その境の膜は透過性をもっているということです。

そして、高齢化社会の問題や、軍事化の問題──これを今では「安全保障」というわけですが──、国際関係等も、大きな流れの中で考えていくとき個別の実相が浮かびあがって、初めて的確で意味のある捉え方ができるのではないでしょうか。

 

現在の厚みを振り返る

そんなわけで、本書ではまずは、今の日本が世界の中でどうなっているかといったことを見ていきたいと思います。

もう一つは、いわゆる文明の発展というものがどんな節目を経てきているのか、そしてそれが今のような国際関係として構成された世界の中でどのようにせめぎ合っているのかということです。

私たち一人ひとりはもちろん、個人の私的な生活を生きているつもりでいます。しかしそういう私的な生活はどのような枠づけや条件のもとに営まれているのか、その枠組みはどうなっているのかを考えてみたいわけです。

そのためには、現在の状況を形づくってきたプロセスを多少はたどらなければなりません。つまり、歴史的に考えてみるということです。それでないと現在の厚みは捉えられませんから。現在とは扁平な面ではなく、それ自体が厚みをもっています。その厚みを、時間の軸を少し長めにとって探ってみることが必要です。