建て替え工事が進む「津久井やまゆり園」【撮影/著者】

「優生思想」と向き合うことは、自身の中の「加害性」に気づくこと

ヘイトスピーチはホロコーストの始まり

2度目のアウシュビッツ訪問で

心地よい涼しさの、風が穏やかな朝だった。それだけに、レンガ造りの建物を囲む有刺鉄線が、青空の下で余計に物々しく感じられる。敷地内の通路には世界中からのツアー客が行きかい、すれ違う度に違う言語が耳をかすめていく。

2017年9月、私はポーランド南部の街、オシフィエンチムにある、アウシュビッツ=ビルケナウ博物館(以下、アウシュビッツ博物館)を訪れていた。第二次大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人の「絶滅計画」を実行に移していった。それ以前にも繰り返されていたユダヤ人の虐殺が、この計画によって本格化していったのだ。

強制収容所として作られたアウシュビッツでは、1940年6月から1945年1月までの4年7ヵ月の間に、約110万人が犠牲になったとされる。ユダヤ人だけではなく、多数のポーランド人やソ連人捕虜、ロマ人、同性愛者、障害者らがここで殺害されていった。

生きるに値しない人と、そうではない人、あまりに恣意的なその線引きの根底には、「優生民族」であるアーリア人こそがヨーロッパを統一するのだ、という彼らのスローガンに見られるような「優生思想」があった。

アウシュビッツ博物館、正面ゲートに掲げられている「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になれる)の文字。「B」の文字が逆さまなのは、これを設置させられた労働者の密かな抵抗だったと見られている。【撮影/著者(以下同)】
 

戦後、博物館として改装されたこの場所へは、世界中から年間200万もの見学者が訪れるという。実は、この博物館に伺うのは2度目だった。それより10年前の大学生の時、ドイツに留学していた友人と二人で訪ねたことがあった。その時も同じ、9月だった。

教科書に載っている有名な場所だからと、私は十分な予備知識もなく訪れてしまった。そして展示室となっている建物内で、友人と二人、茫然と立ち尽くした。そこには、強制連行されてきた人々の「遺品」として、靴やハブラシ、メガネなどが堆く積まれていたのだ。

中でも衝撃だったのは、収容されていた人々の髪の毛が展示されている部屋だった。焼却炉で焼かれる前に刈り取られた髪の毛は、衣料品会社や絨毯製造工場へ販売され、糸や靴下に加工されていたのだという。

この小さな靴を履いていたあなたは、どんな少女だった? このメガネをかけていたあなたは、いつも何を見つめていた? 語りかけても、死者たちは直接答えることができない。だからこそ今、目の前にいる自分が、うんと想像力を働かせるしかない。それでも、一つひとつの遺品が発する、なぜ人間がここまで残酷になりうるのか、という問いを、当時の私は受け止めきれずにいた。

博物館にはカバンなど、収容された人々のかつての持ち物が並ぶ。

展示室を出ると、既に日が陰り始めた外の空気は冷たかった。9月であってもジャケットを着なければ肌寒いこの場所で、収容された人々は、極寒の冬をどう耐えようとしていたのだろうか。帰りの電車の中でも、友人と二人で押し黙ったままだった。